(2009年7月号)

今年もまたお盆の季節がやつてくる。
 御先祖様の霊をお迎えしてお祀りするお盆の習慣は、一般には仏教と密接に関わりがあると思われている。
 然し、お盆は必ずしも仏教だけの行事ではない。むしろ日本の仏教が民衆の生活の中に浸透する以前から 民間信仰の一つとして存在していたのだ。
 お盆は正月とならんで1年の大切な区切りとして昔は「盆正月」とも言われ、新年同様3日間は家業を休み、 一家団欒して祖先の霊を祀ったものだ。
 それでは先祖の霊は一体どこから来るのだろう、以前「霊」は風となって常に私達の傍にいて私達を見守り続け、 決してお墓の中にはいない等という無茶苦茶な歌が流行(はや) ったが、私にはどうしても御先祖様はお墓の中にも居られると思いたいし、又それを信ずるからこそ御彼岸には 家族揃ってお墓参りをするのだ。
 唯、大昔、家族専用のお墓が無かった頃、山に囲まれた村落では、御先祖様の霊は幾つもの山を越えて私たちの 所に戻って来られ、又海浜の村々では海の向こうから、はるばると海を渡って来られると信じられていた。

鬱陶しい梅雨が明け、遠く近く盆踊りの太鼓の音が聞こえてくると、私達は何となく煩わしい日常の生活から 解放されて、遠い昔に亡くなった御先祖様や両親はもとより、かつて親しかった人達の在りし日の面影を、 あれこれと思い出しながら軒の前で迎え火や送り火を焚いて、しんみりとした気分に浸るのだ。
 然し、私にとって今年のお盆ばかりは郷愁にふけりながら御先祖様をお祀りする等という余裕はまったくない。
 33年間も私の会社で苦楽を共にし、死ぬ4日前の去年12月27日の夜「来年も又よろしく、どうか良い正月を」 と言って別れた友人でもあった社員が大晦日の朝、突然心不全で亡くなったのをはじめ、生きている私との関係が まだ密接に感じられる人達だけ数えても、この原稿を書いている5月末現在14人もの人が新盆を迎えるのだ。
 その内訳は義兄2人、その他の身内4人、常に優勝を競い合った馬乗り仲間や愛すべき後輩達、そしてこの 3月31日には私の娘婿が2人の子供を残して53歳の若さで帰らぬ人となった。

彼が肝臓癌と診断され、余命あと2ヵ月との宣告を受けた去年11月中旬、私は約60年間、病気の時以外唯の2日も 欠かしたことのなかった酒をプッツリと断ち、時間をみてはお線香を立てて娘夫婦や2人の孫の顔を思い浮かべつつ 般若心経の写経をした。
 結局私が娘夫婦達に出来ることはそれ以外にないと思ったからで、結局、彼の (ひつぎ)の中に納められた般若心経は100枚程度に なっていた。
 今から約20年前、死ぬかも知れない危険な心臓の手術をするにあたって、私なりに「死」を現実のもとして 見つめようと努力し、又手術後は極楽浄土を美化しつつ、ある意味で「死」を追いかけていた79歳の私は、 娘婿を亡くして初めて「死」に追いかけられている自分を実感として提えることが出来たような気がした。
 2年前に46歳の若さで亡くなった哲学者・池田晶子さんの「死とは何か」という本が今年4月に発刊された。

 「人 生が存在するのは死という謎があるからだ、どう考えても死なんて言葉だと知るだけだ、さて死んだのは 誰なのか」と彼女はいう。
 医学的にいうと、「死」とは瞬問的な出来事であり、初七日・四十九日・百箇日というのは死者が生者から徐々に 遠ざかって行く道程を表すものだ。
 又、社会学者は「死」は肉体の終結だけではなく社会的結合(家族やその人の属する社会)の破 壊でもあるという。
 その社会的結合の破壊は一気には行われず、いろいろな段階を経て徐々に喪失していき、 やがて死者が祖霊となる。
 その忘れられない懐かしい死霊や祖霊が我々の家に戻ってくるのが、お盆の行事なのだ。

般若心経の写経をしながら私を追いかけてくる「死」について考えてみた。
 「色即是空−−目に見えるもの形あるものは滅ぴゆくものだ」。「空即是色−−存在し滅ぴゆくものだからこそ 形があり目で見ることが出来るのだ」。
 目に見えるもの、形あるものは総て壊れ移ろいゆく、この移り変わりを「無常」という。
 私達は常に事実を事実として見る無常観をしっかりと身につける必要がある様に思う。
 娘婿の葬儀の行われた神楽坂の善國寺の境内の花は満開だった。はらはらと私の肩に散りかかる 花弁(はなびら) は、娘婿が「どうか子供達を頼みます」と私に語りかけている様な気がした。
 それと同時に私はフッと「3日見ぬ間の桜かな」という言葉を思い出していた。
 咲いたかと思うとすぐに散ってしまう桜の花に「色即是空」を見ると同時に、3日見ないうちに桜の蕾が こんなにも大きくなったと、そこに孫達の成長を見ることが出来、それが「空即是色」なのだ、と。
 3日見ぬ間の桜の花に滅びゆくものと成長してゆくものとの両面を見ることが出来る。
 咲いた桜が散るのも無常なら、蕾が花開くのも又無常なのだ。

子供の成長という無常を喜ばない親はいない、生から死へ、死から生へと絶えず移行していると見るのが 無常観なのだ。
 彼の残した2人の子供達、私にとっての可愛い孫達の成長を彼はきっと草葉の陰から見守りつつ、 当然お盆には懐かしい我が家に帰ってくる。
 然し、私にとっての二人称(身内や親しい友人・知人)の死は、いつまでも私の心の中に生き続けていて、 その意味では私が死なぬ限り死んではいないことになる。
 我々にとって二人称の死は死んだ人にはなり得ないのだ。
 そして一人称の死も又、我々が生きている限り死というものを知りようがない、正確にいうと、 生きている限り一人称の死は存在しない。
 唯、三人称の死(赤の他人)だけが一般的な死として、新聞の死亡欄を見ながら誰それさんが死んだという言い方で 我々を納得させることになる。
 最後に今年新盆を迎える人の約半数が癌で亡くなっている。たしかに日本は2人に1人が癌にか かる世界一の癌大国だ。

 1981 年に癌が死因の第1位になつて以来独走傾向にあり、先進8ヵ国で人口10万人あたりの癌死亡数が増え 続けているのは日本だけだという。
 日本の癌対策は非常に遅れている。国内総生産(GDP)に占める医療費の割合は8%、先進国中最下位だ、 「道路や箱物はどんどん造るが、命にはお金をかけない」のが日本の政治だ。
 この記事が活字になる頃、今年度の予算も決定し政局がどう変わっているかわからないが癌が今回の 新型インフルエンザのように感染するものなら国会で大いに流行らせてみたい。
 癌によって大切な掛け替えのない肉親を亡くして悲嘆にくれている多くの日本人のいることを思 い出させる為に。      合掌

(池田晶子著「死とは何か」参考)