現代芸術の行方
(2009年4月号)

私はこれ迄に二度「芸術」について書いたが、私のようにまったくの独学で、しかも彫刻家としての常識を持ちあわせない 駆け出しの人間にとっては、どうも最近の彫刻界のあり方が腑に落ちないところが多すぎて、私がこれ迄描いていた純粋な 「芸術」というものの考え方を180度変えないと、現在の彫刻界について行くことが出来ないと思うようになっていた。
 ところが、つい最近出版された「芸術崇拝の思想」(松宮秀治著)という本は、まさしく我が意を得たりの感があったので、 今回はその本の内容の一部を紹介しながら私のこれ迄考えていたことについて書こうと思う。

その本によれば、1980年代に入ると、この日本は全国津々浦々にまで美術館が建設され、芸術大学も十指にあまり、 国際展等も至る所で開催されるようになった。
 要するに芸術をとりまく制度的な環境は十二分に整えられた反面、芸術そのものは殆ど壊滅状態に陥ってしまったと 嘆いている。
 即ち、作品の評価基準が雨散霧消して、良いも悪いもどうとでもいえるようになってしまった。
 その結果、現代芸術はサブプライムローン問題を恒常的に抱えているようなもので、いつ 何時(なんどき)現代芸術の総てが粗大ゴミになりかねない状態 にあると嘆いている。
 然しこの件に関して私自身は自分の創った作品は総て粗大ゴミだと思っているけれど、この本の著者はその様な状態の時 だからこそ芸術家と云われている人達は挙って「真の芸術とは何か」をその原点から考え直す必要があるというのだ。
 また、非常に興味深いのは、この本の終章の「芸術崇拝の行方」では、芸術がすっかり制度化してしまった現在、芸術は 礼拝価値から展示価値へと移行し、最早その展示の暴走化は止まるところを知らず、この展示の暴走化は単に作品の 展示方式のみにと止まらず、最も深刻で重大な展示の暴走化は「芸術家自身の展示品化」を招いてしまった ことだという。

いまや芸術家は「自分自身の存在を作品化する方向を拒否しだした。何故ならば授賞制度や栄典顕彰制度が (ぼほ)社会的に 完備され、死を賭してまでの存在の作品化が無用になったからなのだ。
 更にこの制度には作品の当落や優劣を決める必要があり、その結果として様々な弊害が生まれた反面、その制度に 安住して自己高揚を図ることを怠るようになり、まさに近代芸術は (むな)しいものとなって、芸術はその内部からの思いあがりと 不遜から自滅の一途を辿りつつあると云う。
 そもそも技と学を語源とする芸術は、一定の材料・技巧・様式などによる美の創作表現を意味し、 彫刻や絵画は造形芸術の分野に入り、芸術の創作活動を行う人達を一般的に芸術家と称している。
 然し、本来芸術活動の根源は自己表現という祈りの感情であり、作者の創作時には常に一種の喜悦に満ちた 創作に従って、持てる技術の限りをつくし、眼から入ってきた美の感激を思いのままに表現したいという思いがあるだけ のことなのだ。
 更にその創作活動には、常にこういう物を創りたいという強い願望と自分の限界に挑戦しようという強い意志が必要であり、 その感情の中には他人の目を気にしたり、まして賞をとって有名になりたい等という思いは微塵も入り込む隙はない。

 「彫 刻も、出会いも、愛も総て偶然から生まれる。その偶然を一期一会として、すべて己が生きる道程のクサビとして 深々と刻してゆく、その証しが彫刻を創る行為となり、作品となる。運命でもない、必然でもない総てが偶然。偶然と思い 定めて生きるところに驚きがあり発見があり、すべてが新鮮さをもって立ちあがってくる」といった彫刻家がいた。
 (けだ)し名言であり、彫刻はそれ以外の何物でもない。
 また、私の場合は馬の彫刻しか創っていないが、馬の肉体の美しさや躍動美を感じない人に美しい馬の像は創れるはずは なく、作者が真から興味をもたずに出来た作品は見る人を決して感動させることはない。
 「(うまや)七分に乗り三分」という諺がある。
 私はかれこれ70年間馬に乗っているから馬体に触っで馬の手入をしていた時間を合計すると、少なく見積っても2年間、 1年365日、24時間夜も眠らずに馬の体を一心不乱に触り続けたことになる。

嘗て「モデルに触らなくては作品が出来ないようでは彫刻家とは云えない」、と偉い彫刻家の先生が私に言った。
 然し誰が何と言おうと実物に触って確かめた方が良いに決まっている。
 だいいち、人間や動物の具象彫刻には手の温もりが感じられなければならないはず、手で触って確かめなくて、 どうして本物の温もりを表現することが出来るだろう。
 想像は決して自らを超えることは出来ない。
 もっとも裸婦の彫刻を創っている男の彫刻家で私のように2年間も夜も眠らずに若い女性の裸を触り続けた人はまず いないと思うから、私は馬の彫刻でよかったとつくづく思っている。
 兎に角、私にとっての馬の彫刻は自分の今の気持、いや自分自身をどのように表現すればいいのか、自分を発見する為の 制作であり、粘土と向き合っている時が一番幸福な時間で、仕上がった作品は大体いやな箇所ばかりが目に付いて自己表現 の失敗作というか、その残骸のような気がして、何時もその残骸を前にして、より良い表現方法を模索しているようなわけ で、従ってグループ展等で自分の失敗作を展示するのは少なからず抵抗を感じる。
 また、芸術作品の良し悪しは、その人個人個人の評価によって決めるもので、作者名によって作品の価値を 云々(うんぬん)するのは誤りであり、著名な芸術 家の作品にも駄作はあるものだ。
 「これは誰々の作品ですよ、素晴らしいでしょう」と言われても粗大ゴミどころか、腐った生ゴミの ように周囲に悪臭を放っている作品もある。

いずれにしても展示の暴走と授賞制度や栄典顕彰制度は芸術内部からの思いあがりと不遜の精神とあいまって、 近代彫刻は自滅しつつあることは間違いない事実であり、芸術が職業になったところから堕落が始まる。
 宗教・教育・政治皆しかり、芸術家も宗教家も教育者も政治家もその生活の糧は別の処に求めぬ 限りその純粋さを保つことは出来ない。

以上