私の馬莫迦人生
(2008年12月号)

 「修 ちやん、馬に乗せてあげようか」とある日親戚のお兄ちゃんが私に云った。
 動物好きの私は大喜びで彼に連れられて家から歩いて7〜8分の処にある乗馬クラブに行った。 小学校3年生の時である。
 当時慶應大学の馬術部員だったお兄ちゃんは馬好きの友人数人とお金を出し合って買った馬をそ の乗馬クラブに預託していたのだ。
 忽ち馬の虜になった私は毎週のように(うまや)に遊び に行くようになり大学生の練習の後に並足の鎮静運動をさせてもらった。
 それから約2年、忘れもしない昭和16年12月7日、私は生まれて初めて30糎程の馬場柵を速歩で飛ぶことが出来た、 というと聞こえが良いが実際は馬が跨いでくれたのだ。
 天にも昇る思いで早速学校で皆に自慢してやろうと思っていたら、次の日の朝突然ラジオから「大本営発表、 大本営発表!本8日未明……」と臨時ニュースが流れてきた。
 以来六十有余年、私は懲りもせず未だに馬に乗り続けている。

中学・高校・大学と慶應義塾の馬術部に籍をおいた私は戦争中も数頭残った大学の馬の世話の為に馬場通いを続け、 戦後は第一回の国民体育大会の団体優勝を皮切りに全日本学生選手権や全日本馬場馬術選手権にも個人優勝して昭和30年に 日本スポーツ賞を受賞することが出来た。
 卒業後も馬を買って数えきれぬ程競技会に出場したが馬に夢中になりすぎて会社を二つ整理して娘達から 「倒産トーチャン」の称号を頂いた。然し本当は倒産ではなく整理しただけで今でもその当時の社員とは文通がある。
 1980年の後半に入ると若干お金の方も余裕が出来たので女房・子供の非難の眼差しを無視してドイッから2頭の優秀な 馬を購入し、会社は人に任せて馬三昧の生活が始まった。
 そして1991年の夏の暑い最中、馬事公苑で行われたバロセロナオリンピックの最終選考会で馬場馬術の演技中私の心臓は その暑さに耐え切れず僧帽弁閉銷不全による腱索断裂(症状は馬が疾走中におこす心房細動と同じもの)となり、 危うく腹上死ならぬ名誉の馬上死を遂げるところだった。
 その結果医師は比較的安全な人工弁にすることを勧めたが、そうなるとワーハリンという血液を薄める薬を一生涯 飲まねばならず薬の副作用で少しの怪我でも血が止まりにくくなり、馬に乗るどころかそろりそろりと 残りの人生を生きねばならない。

その様な惨めな思いはしたくないし、第一まだ2頭の馬には大いに未練があったので家族と医師を説得して日本でも 数例しかやったことのない形成手術をすることにした。
 成功率50%のその手術は幸運にも大成功で現在私の心臓はゴワテックスという数本の化学繊維の糸で修理され、 健気にも1日約10万回も鼓動し続けている。
 もしもその時私を待っていてくれている2頭の馬がいなかったら、恐らく私は成功率の高い人工弁にして家族の者達の 厄介者となって周囲に気兼ねをしながら何もすることなく空しい日々を送っていることだろう。
 尚余談になるが、死ぬかも知れない大手術の前日、家に以前注文しておいた長靴が届き「貴方は一体何を考えているの!」 と女房から金切声の電話があった。然しこれは御先祖様が一日も早く元気になって又馬に乗れというお告げの様な気がし てその長靴は私の入院中病室の枕元で心地良い革の匂いを漂わせていた、さぞ見舞客は迷惑だったと思う。
 手術から約半年、馬術選手として復活した私は2002年に馬場馬術の選手として世界ランキング82位にランクされた。 それは私の72才のときの事で翌年は73位になろうとエイジシュートを目指したが、如何せん愛馬も寄る年波で動きに 鋭さを欠き、残念ながらその目的は果たすことが出来なかった。

そして78才の今日、心臓の弁が若干緩んで血液が流れ出した為試合の出場は断念せざるを得なかったが、1ヶ月程前に 医者から人工弁にしてぺ一スメーカを入れればまだ試合に出られると言われ又ぞろ浮気の虫が目を覚ました。
 心臓の手術をしてから今日迄、腰部と頚部の脊柱管狭窄症や内痔核・盲腸炎・尿道開拡大・前立腺肥大等々計5回もの 手術をしたがその都度手術前よりずっと元気になるので手術には何の抵抗もないが人工弁にして馬に乗って死にでもしたら 「あいつはやっぱり大莫迦者だ」と笑われるのが関の山だから今の処じっと我慢している。
 それでも危険な手術を決心した時には自分なりに私のこれ迄の生き方は間違いではなかったという確信を持ちたくて 手術迄の約2ヶ月問珍しく本気で仏教の本等読んだお陰で仏教関係の出版社主催で「辻説法」という法話(?)をしたり、 烏滸がましくも経済同友会の集まりで「第二の人生」等と題して経済界のお歴々の前で語しをさせて頂いた。
 然し去年は目黒区美術館の「馬の近代美術展」に私の創った馬像を3体展示した関係でトークショーをやったが 1週間前の武豊氏のトークショーには聴衆者が大きな会場に入りきれず整理券を出したというのに、私の時には閑散として いて当然の事ながら役者の違いをまざまざと見せつけられてしまった。

彫刻の話しが出たついでに馬の彫刻について触れると、やはり心臓手術を控えて万一の場合に西村という男が此の世に生きた という証拠を残したいと思い、まったくの独学で創りはじめ、幸いにもその第1号を世田谷の馬事公苑の欅並木の 処に設置させて頂いた。
 彫刻を始めた動機はその外にも幾つかあるがヨーロッパに馬を買いに行くと町の広場等でよく騎馬像が立っているが 騎手は素人目にも良く出来ているのにどうも馬の動きが気になって、この馬は次にどの足をどう出すのか物理的に不可能な 状態で立っている像があり、私ならもっと自然な動きの像が創れるのにと常々思っていた。
 又の理由は、私の様な男を今日迄育ててくれたお馬様に対して馬という生き物は、こんなにも美しいものなのだということ を、より多くの人に知ってもらいたいとの思いと同時にお馬様への恩返しのつもりでもあった。
 又、美しい馬体の躍動姿勢への強い関心を充分に満たし生かすには三次元の芸術である彫刻以外にないとも考えたからで あり、私が真に馬の美を感じる時は馬の一瞬前の動きを脳裏に刻んで今の姿を見た時、その次の馬の動きを創造した瞬間、 私の肌に鳥肌が立つことに気がついた。要するに過去・現在・未来の動きを馬像の中に凝縮する事が出来れば良い作品が 出来ると思うのだが、それは日暮れて道遠しの感がある。
 唯、馬に乗り続けて70年、「厩七分に乗り三分」の諺通りに計算すると約2年間というもの1年365日、24時間夜も眠らず 私は馬の体を触り続けたことになり、等身大の馬を創っていると自然と馬の肌の温もりや柔らかさ、そして肌の震えや心 臓の鼓動迄も感じることがあり、(うまや)に行かずとも 馬の体に触っている快感を密かに楽しむことが出来る。

さてはこの様な楽しみを何十年も裸婦ばかり創っている彫刻家は味わっていたのかと気がついた。然し、私の場合はモデルの 馬のどこを触っても文句を言わないが裸婦の場合は忽ち手が後ろにまわるから触りたい心をじっと堪えねばならず、 よく欲求不満にならないものだと感心している。
 又そのモデルも私の場合はオリンピックに出る様な超一流の馬に触って筋肉の付き具合を楽しむ事が出来るから 彫刻家冥利に尽きるというものだ。
 第一その様な馬は欧州で年間生産される約2万頭の血統正しい馬の中から特に優れた素質の馬のみを厳選して、 一流のトレニナー・騎手・獣医・装蹄士・馬取扱人が心血を注いで創り上げたもの であり馬それ自体超一級の芸術作品だと言う事が出来る。
 その様な理由で60の時から独学の彫刻も馬を創る人が少ない為にサラブレッドや乗用馬の像を馬事公苑を始め 新潟競馬場や美浦トレーニングセンター、宇都宮の競走馬総合研究所、三木ホースランドパーク等約十数基も設置させて 頂き、お陰様で彫刻家の仲間入りをさせて頂いた。

又私はかれこれ20年間、月刊誌「コア」をはじめいろいろな雑誌にちょっとしたエッセイを書かせて頂いているが内容は 70年間馬に乗って感じた事や彫刻の話しが主だが偶に宗教的な事も書かせて頂く、宗教雑誌に偉そうな事を書いておく と自分の書いた文章に縛られて、よからぬ考えが浮んでもそれを実行に移す事が出来ず、本位ではないが品行方正に ならざるを得ない、その様な理由で数年前私の本の副題を「自縄自縛」としたことがある。
 又馬から教えられた事なども書いているが例えば調教すると言う事は「いかに上手に馬に調教されるか」という事で 馬の潜在能力を引き出すには鞭や拍車が害になる事が多い。
 又「善因善果・悪因悪果」というが馬にとっての善因でなければ善果は期待出来ない、馬にとって良い事をしてやれば 必ず善果として返ってくる、とこの様な事を書いていると結構老後の退屈凌ぎにもなりボケ防止にもなるから「一石二鳥」 だと思っている。
 いずれにしても幸福な人生を送るコツは常に目を輝かせて生きる事だがその様に生きるという事は決して楽な事ではない、 その様な人生の中で自分自身の掛け替えのない個性に気付いてその個性を深く見つめる事が、つまる処自分自身を知る事 であり、それは人間だけに与えられた特権だと思っている。

友人達は私の事を「お前は救いがたい莫迦だ」と言う、又「お前の莫迦はきっと死んでも治らないだろう」とも言う。
 私自身も、きっとそうだろうと思う反面「絶対に治りたくない」と思っているのだから正真正銘、 折り紙つきの莫迦に違いない。
 因みに私は昭和5年生まれの庚午(かのえうま)である。