馬乞食(ウマコジキ)
(2008年8月号)

私の学生時代の渾名アダナは「馬乞食」終戦直後、 昭和20年代前半は今のようにお金さえあればヨーロッパからいくらでも調教された良い馬が買える時代ではなく、 当時の大学の馬術部の馬は栄養失調で満足に乗ることも出来ず、又大半の馬術クラブは廃業同然の有り様で良い馬に 乗れる処はごく限られていた。
 従って馬術が上手(ウマ)くなりたければ、あらゆる機 会をとらえてどのような苦しい思いをしても調教された良い馬に乗る必要があった。
 即ち、馬術は決して人から教えてもらうのではなく、調教の出来た良い馬からしか教わる事が出来ないからだ。
 その当時、良い馬がいる処といえば、中央競馬会の騎手養成所だった世田谷の馬事公苑か皇居内のパレス乗馬クラブ ぐらいのものだった。

ところが幸運にも私は、旧陸軍騎兵学校の教官をされていた浅岡精一先生と知り合い、先生の馬場で非常に良い馬に 乗せて頂く機会に恵まれた。
 その馬場は千葉県の習志野の旧騎兵学校の敷地内にあり、先生は昭和の間垣平九郎といわれた遊佐幸平先生が アムステルダム・オリンピックで騎乗した(サキガケ)号を 調教された方で、豪放磊落で酒好きな旧陸軍の騎兵大佐だった。
 そこには現在のオリンピックでも充分に通用する高等馬術の演技の出来るボニーラン号と、中山大障碍を制した ダイオライト産駒のモトクマ号という大障碍馬が繁養されていた。
 高校に入ったばかりの私は、何としてもそれらの馬に乗りたくて、母に学校に行くといっては弁当をつくってもらい、 習志野通いを続けたものだ。

然し、当時は「ゾロ(チョウ)」という下士官が履いていた 長靴はあっても乗馬の為の革製の長靴を創る職入もいなく、止むを得ず中学時代に履いていた長靴を無理をして使う 以外になかったが、如何せん育ち盛りの私にはきつくてなかなか入らない。
 そこで仕方なく習志野駅から馬場のある薬園台(ヤクエンダイ) 駅迄の約4粁の道を戦時中に使っていたゲートルを強く脚に巻いて約1時間程歩くと馬場に着く頃には脚が紬くなって 何とか長靴を履くことは出来た。
 然し、馬に乗って10分もすると足がパンパンに張って感覚が無くなりそうになるが、それでも大障碍を飛び高等馬術の パッサージュの快感が忘れられず我慢して通い続けた。
 勿講、騎乗後は何頭もの馬の手入れはもとより厩舎の掃除や馬具の手入れを何時間もかけてやったりと学校に行かず よく働いたものだ。

そのような状態が暫く続いたが程なく先生も船橋競馬場の誘導馬の調教の為に船橋に引越され私は馬に乗せて頂けなく なってしまった。
 止むを得ず又々いろいろな(ツテ)を求めて今度は目 出たく馬事公苑で馬に乗れる事になった。
 然し、良い馬に乗せて頂くには馬取扱いの人達のご機嫌を取る必要があり、馬事公苑の近くの 上町(カミマチ)という処の朝鮮人部落で密造の 濁酒(ドブロク)を買ったり 東横線の日吉の駅の近くで売っていた米軍の進駐軍の煙草の吸い殻を集めて巻き直した通称「洋モク」の ラッキーストライクやキャメル・チェスターフィルドを買って厩舎にお土産として持っていったものだ。
 勿論、厩舎作業は随分やらされたが、そんな苦労も馬に乗れる楽しさを思えば苦にはならなかった。
 そのうち何故か私は当時の馬事公苑の苑長に可愛がられ、馬事公苑の帰りに、「私に付き合え」といわれて渋谷の 怪しげな中華料理屋につれて行かれた事が何回かあった。
 然し、或る時茶目っ気の多かった苑長に忠犬ハチ公の銅像に跨ったら明日はマスリューと 春生(シュンセイ)で大障碍を飛ばしてやるといわれ、 学生服のままハチ公に跨ったが、犬がおすわりをしているので跨ることが出来ず犬の首にしがみついた。

当時、ハチ公の銅像は国鉄渋谷駅の改札口の横にあり、忽ち駅員に見つかりこっぴどく叱られたことも懐かしい 思い出の一つだ。
 要するに当時の私は良い馬に乗りたい一心で随分といろいろな処に行くものだから遂に友人から「馬乞食」の称号を 頂くこととなったというわけである。
 そのようにして良い馬に乗せてもらった経験をもとに、大学で私に割当てられた新馬を調教し、国民体育大会や 全国大会にも優勝することができた。
 ところが良い気になって馬乞食に明け暮れしていた為、大学3年の時、卒業に必要な単位が極端に少なく4年への 進級が危くなり、その事が父に露顕し乗馬道具を総て取りあげられてしまった。
 然し、関東学生の代表選手だった私は全日学生選手権への出場資格があったので棄権する手はないと友人から 乗馬服や長靴を借りて出場したところ幸いにも優勝してしまい、その記事が日本経済新聞の一面に写真入りで掲載された 為、忽ち父に見つかって、ものすごく叱られてしまったが、この勝負は今でも私の勝だと思っている。 ざまあみろ!
 勉強一筋で学者肌の銀行員だった父にしてみれば一人息子の将来が思いやられて随分と悔しい思いをしたとみえ、 終生馬を目の敵にして緒局死ぬまで私の乗馬姿を見ようとはしなかった。
 そのような家庭環境の中でも何とか今日迄馬に乗ることが出来たのは、私を5才の時から育ててくれた母親のお陰で、 もしもその継母がいなかったら、私の人生はまったく今とは違ったものになっていたことだろう。

兎に角、末期高齢者の今日迄の約70年間というもの馬に乗り続けたお陰で、私なりに馬から人生の何たるかを学び、 馬で試合に出られなくなった現在では馬の彫刻を創り、馬から学んだ事等を文章にしたりして結構退屈を紛らわす事が 出来ている。
 私の大恩人の母は約50年前に此の世を去ったが私の親戚の現在96才の叔母は私の強い見方で、
 “うき世をも 愛馬と進む人道は
   うまく ゆくゆく 馬運馬運ざい”
 と詠んでくれた。
 
 結局これからの私の人生も馬に明け馬に暮れることになると思うが、これ迄浮気一つせず馬一筋に来れたことに 結構満足している。

然し、今の若者達は遊ぶことに関して、あまりにも恵まれすぎていて馬術部の学生達も夏はヨットだ冬はスキーだ スケートだと目移りがして、どうしても一つの事に集中できない傾向がある。
 その上、今の学校は在学中になるべく多くの経験をして何が一番自分に適しているかを見つけるようにと指導している と聞くが、現在の学生生活はあまりにもいろいろな誘惑がありすぎる。
 然し、出来得れば会社勤めをしながら、又定年後も続けられるものを選ぶ事が人生をより豊かにするコツのような 気がするが、これもその人にとって良い選択か否かは神のみぞ知る処だ。
 いずれにしても生きるという事は決して楽な事ではないと思う。そのような人生の中で自分自身のかけがえのない 個性に気付きその個性を深く見つめる事が、つまる処自分自身を知る事であり、それは人間だけに与えら れた特権だと思うのだ。

以 上