看々臘月盡(虚堂録)
(2008年6月号)

今から10年前、私は毎月書いている「馬耳東風」をまとめて一冊の本を出版した。
 そして、その本の副題を「自縄自縛」とした。
 何故ならば、毎月「コア」に偉そうな事ばかり書いていると、つい不心得な気持が起きた時でも かつて自分の書いた文章に縛られて自分を抑えることが出来るからで、実の処今迄にも幾度かその 様な経験をした事があった。
 要するに、私にとってこの「馬耳東風」は自戒の役目と将来に向っての努力目標を設定する上で も大いに役立っているように思う。
 そして今回も又私の健康上の問題から偉そうなことを書いて自分を縛りつけねばならぬ事態が起きてしまった。

人間、後期高齢者を3〜4年もやつていると、身体のいたる処が傷んできて、少々のパーツの交換では次の 車検まで持ちそうになく、下手をすると廃車にもなりかねない。
 要するに若い時の無茶な行動が崇って最近とみに足腰の痛みが激しく、その上毎月必ず看て頂いている主治医 から、17年前に手術した心臓の弁から、少しずつ血液が漏れだしているから以後馬術競技のような激しい運動は 慎むようにと念を押されてしまった。
 その為もあってか、どうも最近朝起きるのが辛く、肺気腫の傾向もあって息切れもひどく、粘土をいじって いても以前のように根気が続かず、その上運動不足の為に食欲もなく唯、晩酌の「つまみ」によって何とか 生きているような始末である。
 そこで此の際何とかして気力を奮い立たせんものと偉そうな事を書こうと言うのだ。

思いおこせば、今から17年前、「僧帽弁(そうぼうべん) 閉鎖不全による腱索(けんさく)断裂」、 要するに強度の心臓弁膜症になって将来の夢も希望も無くしかけた時、この馬耳東風に偉そうな事を書いて 自分自身の気力を高める事に成功したように、もう一度気力を取り戻して、せめてあと10年ぐらいは馬の彫刻を 創りたいと思うようになった。
 そこで取敢えず昔の名僧知識が命をかけて血を吐く思いでつくり出した「禅」の言葉によって自 分を奮い立たせることにした。
 

看々臘月盡(かんかんろうげつじん)
 人間は必ず死ぬ、自分の命も容赦なく尽きてゆくのだから、その事実から目をそらすことなく命に限りのあること を見定めた上で、自分の心と体に耳を傾け、座して死を待つのではなく今やりたい事に果敢に挑戦しよう、 自分の欲していることを叶えてあげられるのも生きていればこそだ、人間はそのために生まれてきたのだから。
 
真玉泥中異(しんぎょくでいちゅういなり)
 まわりのこと等気にすることなく常に自分を磨こう、どのような環境にいようとも自分が本物の宝石なら、 泥の中にいてもその輝きが失われることはない、宝石になろう。
 
魚行きて水濁る。
 歩いてきた道は、見る人が見ればちゃんとわかってくれる、自分の良いと思ったことを実行しよう、自分の 歩いてきた後にはそれなりの道が残る。これからでも遅くはない、自分自身納得のいく道を勇気をもって歩こう。 自分自身の為に。
 
一以貫之(いちもってこれをつらぬく)
 柔軟な心と謙虚な態度で一貫して変らぬ道を進もう。「去年(こぞ)今年(ことし)・貫く棒の如きもの」(虚子)
 
紅爐上一点雪(こうろじょういってんのゆき)
 赤々と燃える信念さえあれば、いかなる誘惑があろうとも一瞬のうちに消えてなくなる。
 
雲収山岳青(くもおさまってさんがくあおし)
 禅語では「あなたはあなたらしく、そのままでいい」と教える。然し、本当に自分が求めているものは何なのか、 雲がかかって求めるものが何だかわからない。雲が切れて青々とした山が現われるように「私」の本当の姿を 見たいものだ、そしてその時自分に失望しないように今努力しよう。
 
自灯明(じとうみょう)
 依頼心を捨てよう。仏の教えに足元を照らして頂きながら(法灯明(ほうとうみょう) )、自分自身で歩いてゆこう、自分の人生を人のせいにせずに。
 
随處作主(ずいしょにしゅとなる)
な  「随処に主と()れば、立処皆真なり」。 常に自分からすすんで事に当たろう。然し、自分自身が主となるためには、虚心になりきることが大切だ。
 
歩々是道場(ほほこれどうじょう)
 立派なアトリエがないから良い彫刻が創れない、机がないから勉強が出来ない、健康がすぐれない から彫刻を創る気力が湧かない。
 喝!
 
三級浪高魚化龍(さんきゅうなみたかくしてうおりゅうとかす)
 目の前に立ちはだかった難問、目の前に登場した次なる試練、それを越えれば素晴らしい境地が開ける。 魚は三段になった高い滝を迷わず登って龍となる。途中で断念して真っ逆さまに落ちてゆくのは真っ平御免だ。
 
目面仏(にちめんぶつ)月面仏(がつめんぶつ)
 太陽の顔をした日面仏、月の顔をした月面仏、このふたつの仏の寿命は日面仏が千八百歳、月面仏は一昼夜。 どちらも一生は一生であり生きる長さは問題ではない。つまり生きている一瞬、生きている一日一日が問題なのだ。 今を精一杯生きよう。  等々
 然しここまで書いてきて私は五十数年前に昭和の間垣平九郎と言われた遊佐幸平先生から私が結婚した時に 頂いた馬の掛軸の賛を思い出した。
 
盡日(じんじつ)春を尋ねて春を見ず
あい(ぼうあいふ)(あまね)隴西(ろうせい)の雲   (註:「あい」をクリックするとunicode漢字が表示されます)
帰来(かえりきた)りて (まさ)()ぎし梅花の下
春は枝頭に在りて巳に十分」
 芒鞍とは藁沓(わらぐつ)のこと。
 皆が春が来たというので藁沓をはいて遠い隴西の地まで行ってみたが春を見つけることが出来ず、 探し疲れて家路につき梅林の下を通り何気なく頭上の梅の枝を見あげると、何とそこには寒気をつ いて今まさに開こうとしている梅の蕾があるではないか、春はもうそこまで来ていたのだ。
 もうあと何年梅の花を見ることが出来るか、兎に角「禅語」という藁沓をはいて梅の蕾が見つかるまで 彷徨(さまよ)うことにしよう。
“旅に病で 夢は枯野を
かけ廻る”  芭蕉

どうすれば満足のいく彫刻が出来るか、つねにその事が念頭にあると夢の中や寝起きの瞬間にいろいろな アイデイアが浮んでくる時がある、芭蕉のこの句は彼の辞世の句だが私はまだ当分は死にたくない、従って これからも藁沓をはいて枯野の中をかけ廻り暗中模索の日々を送るとしよう。
 然し、それは考えようによれば非常に楽しいことなのかも知れない。

以上