オリンピックにメダルはいらない
(2008年3月号)

いよいよ北京オリンピツク開催日迄のカウントダウンが始まった。
 テレビや新聞・雑誌は、あらゆる手段を使って、いやがうえにもオリンピック熱を盛りあげようとする。
 オリンピックを目指す若者連は、青春の総てをかけて、或る者は出場することを、又或る者はメ ダル獲得の為に血の滲むような努力を重ねる。

私はかつて、この「馬耳東風」に3回オリンピックについて書いた。
 即ち、平成15年8月「五輪に未来はあるのか」。平成16年8月「オリンビックを平和の祭典に」。 そしてアテネオリンピックの2ヵ月後の平成16年10月「アテネオリンビックに思う」と題してドーピング問題や 不明朗で大きな課題を残した審判について触れ、終わりに北京オリンピックが何のトラブルもなく無事に終わることを 願うと書いた。
 それから3年半、地球上のあちこちで民族紛争等の戦闘の絶えたことはなく、卑劣極まりなきテロリストによって 毎日の如く死者のニュースが流れ、世界の平和は遠のくばかり。
 その上地球温暖化による様々な異変はその頻度を増し、釈迦が予言した彼の死後2500年目の末世が現実味をおびてきた。
 かかる時に開催される北京オリンピックは平和の祭典というより私にはどうしても中国が自国の国威発揚のために オリンピックを利用した第二次世界大戦前夜のベルリンオリンピック(1936年)のナチス・ドイツに似ているように 思えてならない。
 何故ならば、オリンピック開催地が北京に決定した時、中国の教育・スポーツ部門の担当者、陳至立・国務委員 (副首相級)は、全国体育局長会議の席上、「堂々たる大国の風格と優れた成績で世界中に中国を理解させねばならない」 と北京五輪を国威発揚の場とする考えを明確にうち出し、メダル獲得に全力を尽くすようスポーツ関係者に 大号令を発したからだ。
 そこにオリンピックが世界平和の為の一大イベントであることには一言も触れていない。

たしかに今日のオリンピツクはプロ・アマを問わず、個人と個人、国と国との戦いとして、お互いに敵対意識を駆り立て、 個人はもとより各国こぞって獲得するメダルの色と数に目の色を変えているのが現実の姿であり、世界各国のマスコミ達 も又その尻馬に乗って騒ぎ立てるから始末が悪い。
 平和の祭典は一体どうなってしまったのか、各国の政治家達は世界の平和などより自国の利益、いや自分達の利益を 最優先に考える輩が多くまったく頼りにならず、産地限定の宗教はむしろ更なる紛争を招くばかり。
 せめて国際オリンピック委員会だけでもオリンピックの真の目的がメダル獲得競争ではなく世界平和の為に開催する のだという事を各国のオリンピック委員会に正しく理解させるべきなのだ。

そもそも、オリンピツクの起源は紀元前8世紀、デルフイの神殿に詣でたユリスのイフイット王は、絶え間のない 都市国家間の紛争を、せめて一時的にもせよ中止させることのできるイベントを考えるようにその神のお告げを 聞き、スポ一ツを通じて都市国家の偏狭な枠を超越した人類の祭典を開催することによって都市国家間の平和を もたらすことが出来るに違いないと考えた。
 事実、古代ギリシヤ最大の競技会であるオリンピックに集った人達の中には各地の都市の指導者もおり、そこでは 高度な政治論が戦わされ、その結果平和同盟の条約が交わされた例も少なくない。それを見ても明らかにこの祭典は スポーツだけのものではなかったのだ。
 現代オリンピックはそうした古代オリンピックの精神を継承して、1896年、ギリシヤのアテネに於いて見事に復活を 遂げたのだ。
 従って現在の五輪憲章には五輪精神に基づいて行われるスポーツを通して青少年を教育することによって平和でより 良い世界づくりに貢献すること、と明記されている。
 即ち、スポーツ文化を通して世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通じて互いの理解の度を深め 友情の輪を広げることによって住み良い社会をつくり、ひいては世界平和の維持と確立に寄与すること、 をその主目的としている。
 重ねて言う、五輪に於けるスポーツは、あくまでも平和の為の一手段にすぎず、決して勝ち負け がその主目的ではなかったのだ。

ここに初めて近代オリンピツクの創設者ビエール・ド・クーベルタンの「オリンピックは参加することに意義がある」 との言葉が重みを増すのだ。
 然し悲しいかな世界中がメダル獲得に目の色を変えている現在、この傾向を直ちに180度変えろ事は不可能に近いが、 少なくとも大会期間中だけでも争いを自粛させ、回を追う毎に徐々に平和の祭典にすべく関係者は手を携えて努力すべき だと思う。
 スパルタがペロポネソス戦争の時、神聖なオリンピック競技開催中に戦いを止めなかった為、罰金を課せられたという 記録も残っている。
 メダルに目くじらを立てるのは世界選手権だけで沢山だ。
 1種目に出場する選手を1国4名迄と人数制限のあるオリンピックの各種目毎の順位等、上位入賞者以外にはまったく 意味がない。
 因みに私は6年前、馬場馬術競技の世界ランキングで82位だったが、私よりランキング上位の選手で出場枠の関係で オリンピックに出場できない選手が少なくとも3〜40名はいたはずである。
 従って、もしも私がアテネオリンピックに出場できたとしたら、私の順位は間違いなく3〜40位は上がるはずである。
 という事は実力では充分に上位に入れる選手で出場枠の間係でオリンピックに出場出来ない選手 が多数いるという事である。

以上オリンピツクについての私なりの意見を述べたが、現状のままこのオリンピックがマスニコミや間違った スポーツ指導者達の口車に乗って益々エスカレートした場合、選手達の中にはどの様な方法を使っても上位に入賞したい と思う不心得者も出るだろうし、又審判員の主観が優先する競技での不明朗なジャッジや故意に自国又は特定の 国に有利な判定を下すジャッジが現われないという保障はない。
 又ドーピング検査の目をかいくぐる薬物使用は益々巧妙となり、果ては遺伝子ドーピング問題にまで発展しかねない。
 その結果2ヵ月程前のハンドボール競技のようなお粗末な事件が起き紛争の火種とならないとも限らない。
 然し、国際オリンピック委員会の地道な努力によって、いつの日にか私の理想とするオリンピックが実現出来たとしたら、 その時には出場選手全員に世界平和の為に大いに貢献した者として立派な参加章を与え、種目別の優勝者には昔の様に 野生のオリーブの葉の冠か又は月桂樹の冠を与えてその栄誉を称えるといい。
 かくして参加章を手にした選手達は、勝つことのみにその意義を見出していた頃の大会で獲得したメダルより遙かに 名誉な「世界平和の戦士の賞」をこの上なき名誉として、子々孫々に至るまで誇りをもって瀞り伝える事が出来る というものだ。

終わりに北京オリンピックが無事終わるよう祈ると同時に、世界各国が平和の戦士をオリンピックに送り出す 日の来る事を心より願うものである。


若い競技者像(レプリカ)
古代オリンピック

神に捧げる競技大会であったため勝者をたたえるとともに、違反者の像も作成された。