退屈凌ぎ
(2008年2月号)

 “冬 来りなば春遠からじ”
 人は漢然とした期待をこめて「もうすぐお彼岸だ」と言う。
 つい昨日まで霜柱の立っていた土の中から凌ぎにくい季節をじっと耐えていた草木が、やがて来る春を待ちかねて 可憐な芽を覗かせる。
 そこに私達は命というものの素晴らしさ、底知れぬ無心の命の自然の息吹を感じる。
 けれど、草木達は一体何の為に住みにくい此の世で敢えて生き、そして子孫を残そうとするのだろう。
 お釈迦様は此の世の中を「迷いの濁世(ジュクセ)」だという。
 そして此岸(此の世)の対岸には彼岸があるという。
 彼岸とは言うまでもなく仏様の世界、即ち浄土の事だ。

人の一生は此岸から彼岸へと渡っていく道中にすぎないと言われるが、今の様な暮しをしていて果たして私は彼岸に行く 事が出来るのだろうか。
 お釈迦様の言う通り、私もこの世は決して完全無欠の楽土ではないと思うのだが、一旦生まれてきた以上、何とかして 楽しいはずの彼岸に行きたいと願うのが人情だ。
 然し、どんなに偉いお坊さんでも彼岸行きの切符をもらったという話を聞いたことはない。
 又彼岸から此岸に帰ってきて彼岸はこんなに楽しかったと言う人もない。
 唯、彼岸に行く為には死ななければならない事だけは確かだ。
 当然の事だが、生があるから死があるので、生が終われば死も確実に終わり、死ぬ事によって生死が完結する事 になっている。
 従って死んだら死後はなく死後に彼岸があるかどうか、そんなことは誰にもわからない。
 唯、その人の死後、生前親しかった人達の心の中にのみ生き続けるだけの事だ。
 それでも「あんな悪いやつはいなかった、早く死んでくれてよかった」と思われるより、「あんな良いやつはいな かった、惜しい事をした」と言われる方が何となく良いように思う。
 然し、そんな事も死んでしまっては何の意味もない。
 とすれば生きているうちに、なるべく人様に迷惑をかけずに自分の好きな事をして暮したいと思う。

「馬上少年過・世平白髪多
 残躯天所許・不楽複如何」
伊達政宗

若い時には戦に明け暮れて、席の暖まる暇もなく、常に馬上で過ごしてきたが、幸いに今は戦もなく平和な時代 になった。しかし気がついてみると私の髪にもいつのまにか白いものが目立つようになってしまった。これからは 残された人生を大いに楽しみたいと思うが、きっと神様も私のこれまでの苦労に免じてそれをお許し下さるに違 いない。
 然し、好きな事をして楽しむ為には多少なりともお金がかかる、年金生活の私としてはいっそのこと何もせずに 楽隠居ときめこめばよさそうなものを、何と因果なことに私は常に何かしていないと気がすまない (タチ)なのだ。
 第一、生きている以上常に何かしていないと退屈で仕様がなくなってくる。
 何が苦しいといって無聊(ムリョウ)程苦しいものはない、 死ぬ程退屈してくると生きたまま自分の体が腐っていく様な気がしてくる。
 「仏心に退屈なし」と言うが、仏教で退屈とは仏道修行の苦しさ、難しさに負けて精進しようと する気持をなくす事だという。
 然し、一般に退屈とは何もする事がなくて困ることであり、私の経験からして退屈してくると異 常に神経が敏感になってくる。

そこで退屈凌ぎに何かやろうということになるのだが、どこかの偉いお坊さ々が、人間は良い生活をしたいと一所懸命に 勉強して良い学校に入り優秀な成績で卒業して一流企業に入り、出世しようと 齷齪(アクセク)働くのも所詮退屈凌ぎにすぎないと、 いみじくも言っていたが、そうすると私のこれ迄してきた事総てが退屈凌ぎだったと言う事になる。
 それなら、これからもその続きをやればいい事なので会社の方は心より信頼している人達に任せて馬に乗り、 馬の彫刻を創り、エッセイらしきものを書いて気楽に過ごそうと決心した。ところが、いつのまにかそっちの方に夢中 になりすぎて、今では退屈凌ぎどころか、彫刻の奴隷となって、こき使われるはめとなっている。
 だからといって、その苦痛に耐えかねて彫刻を創るのを止めてしまうと更に激しい退屈におそわ れると思うからそれもならず、何という因果な難かと悔やんでも後の祭り。
 結局私は死ぬまでこのような気持を引きずりながら彫刻を創り続けていくことだろう。

そして幸か不幸か彫刻に行きづまり何も手につかなくなると、よくしたもので、 “炊くほどに 風がもてくる 落葉かな”と、どこからか落葉が舞い落ちてくれて自然と退屈凌ぎの材料というか 新しい発想が湧いてくる。
 それはそれ、相応に苦しみも伴うが、その落葉を炊かないと自分の身を焼く羽目になってしまう。
 そしてそのうちに、

“うらをみせ 表をみせて 散る紅葉”
となるのだろう。
 後は彼岸に行けるか、地獄に落ちるか、死んでみないとわからない。
色即是空(シキソクゼクウ)  空即是色(クウソクゼシキ)
 形として存在するもの「色」には永遠に継続するような実体などはない「空」。
 然し、永遠に継続すべき実体がない「空」だからこそ、瞬間的には一定の形があるもの「色」として 存在する。
 目に見える家族や友達・私の作る彫刻等「色」は総て「空」だ、然し、その「空」であるはずのものが、 いろいろな因縁によって今私の目の前に存在している。
 やがて「空」になるとわかっているものだからこそ今の現実を大切にしよう。
 「色即是空・空即是色」を私はそう解釈している。
以 上


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