伊達政宗
若い時には戦に明け暮れて、席の暖まる暇もなく、常に馬上で過ごしてきたが、幸いに今は戦もなく平和な時代
になった。しかし気がついてみると私の髪にもいつのまにか白いものが目立つようになってしまった。これからは
残された人生を大いに楽しみたいと思うが、きっと神様も私のこれまでの苦労に免じてそれをお許し下さるに違
いない。
然し、好きな事をして楽しむ為には多少なりともお金がかかる、年金生活の私としてはいっそのこと何もせずに
楽隠居ときめこめばよさそうなものを、何と因果なことに私は常に何かしていないと気がすまない
質なのだ。
第一、生きている以上常に何かしていないと退屈で仕様がなくなってくる。
何が苦しいといって無聊程苦しいものはない、
死ぬ程退屈してくると生きたまま自分の体が腐っていく様な気がしてくる。
「仏心に退屈なし」と言うが、仏教で退屈とは仏道修行の苦しさ、難しさに負けて精進しようと
する気持をなくす事だという。
然し、一般に退屈とは何もする事がなくて困ることであり、私の経験からして退屈してくると異
常に神経が敏感になってくる。
そこで退屈凌ぎに何かやろうということになるのだが、どこかの偉いお坊さ々が、人間は良い生活をしたいと一所懸命に
勉強して良い学校に入り優秀な成績で卒業して一流企業に入り、出世しようと
齷齪働くのも所詮退屈凌ぎにすぎないと、
いみじくも言っていたが、そうすると私のこれ迄してきた事総てが退屈凌ぎだったと言う事になる。
それなら、これからもその続きをやればいい事なので会社の方は心より信頼している人達に任せて馬に乗り、
馬の彫刻を創り、エッセイらしきものを書いて気楽に過ごそうと決心した。ところが、いつのまにかそっちの方に夢中
になりすぎて、今では退屈凌ぎどころか、彫刻の奴隷となって、こき使われるはめとなっている。
だからといって、その苦痛に耐えかねて彫刻を創るのを止めてしまうと更に激しい退屈におそわ
れると思うからそれもならず、何という因果な難かと悔やんでも後の祭り。
結局私は死ぬまでこのような気持を引きずりながら彫刻を創り続けていくことだろう。
そして幸か不幸か彫刻に行きづまり何も手につかなくなると、よくしたもので、
“炊くほどに 風がもてくる 落葉かな”と、どこからか落葉が舞い落ちてくれて自然と退屈凌ぎの材料というか
新しい発想が湧いてくる。
それはそれ、相応に苦しみも伴うが、その落葉を炊かないと自分の身を焼く羽目になってしまう。
そしてそのうちに、
“うらをみせ 表をみせて 散る紅葉”
となるのだろう。
後は彼岸に行けるか、地獄に落ちるか、死んでみないとわからない。
「色即是空
空即是色」
形として存在するもの「色」には永遠に継続するような実体などはない「空」。
然し、永遠に継続すべき実体がない「空」だからこそ、瞬間的には一定の形があるもの「色」として
存在する。
目に見える家族や友達・私の作る彫刻等「色」は総て「空」だ、然し、その「空」であるはずのものが、
いろいろな因縁によって今私の目の前に存在している。
やがて「空」になるとわかっているものだからこそ今の現実を大切にしよう。
「色即是空・空即是色」を私はそう解釈している。
以 上