後顧の憂い ごまめの歯軋り)
(2007年12月号)

 「後 顧の憂い」とは、言うまでもなく心配事が後に残ることである。
 先月号で私は、66才で此の世を去った一人の馬術家の事を書いた。
 その中で生前彼が実の親父の如く慕い、又馬術の師でもあったT氏の事にも触れたが、そのT氏 も又愛弟子の後を追うかの如く弟子の四十九日の5日後に帰らぬ人となった。
 T氏の葬儀も大変に盛大で、全国から贈られた献花は300基を超え、会葬者も1,000人の多きを数えた。
 私とT氏との付き合いは今から約60年前、彼がまだ独身で馬事公苑の技術職員をしていた時からで、 その後程なく(昭和25年)彼は日本に於ける乗馬普及を目的に馬術に理解のあった英国人と共 同で乗馬クラブを設立した。
 それは私の記憶が正しければ戦後初めての正式な乗馬クラブだと思う。

その当時はまだ昭和の間垣平九郎と言われた遊佐幸平先生もお元気で、戦前のアムステルダムやロサンゼルスの オリンピックに西竹一中尉と一緒に出場した旧陸軍の錚々(そうそう) たる騎兵将校が何人もおられ、皇居の中にあった乗馬クラブや明治神宮に隣接している日本最古の乗馬クラブ等 で馬術の共感をされていた。
 然し、敗戦後間もないその頃の日本は乗馬を楽しむ余裕のある人達も少なく、従って、どの乗馬クラブでも 経営難で馬術の教官をされていた旧陸軍の優秀な騎兵将校の先生方への待遇もすこぶる悪く、又その老後も恵まれた ものとは言えなかった。
 私はそれらの先生方の葬儀には総て参列させて頂いたが、それはいずれも非常に淋しいものだった。

従って、このままの状態では今後馬術の調教師のなり手がなくなり、ひいては日本馬術界が衰退の一途を辿るで あろうことを危倶したT氏は、何とか乗馬クラブの経営を安定させ、調教師も人並みの生活が出来るようにと 東奔西走の末、全国乗馬倶楽部連合会、後の財団法人・全国乗馬倶楽部振興協会を設立し、日本中央競馬会より 全国の乗馬クラブヘの助成金を獲得することに成功した。
 それによって各乗馬クラブは、将来の目途も立ち、指導者の養成及び安全な乗馬の育成をも積極的に行うよう になり、幸運にも東京オリンピックとバブル景気を追い風に乗馬ブームが巻き起こり 今日の隆盛を見るに至った。
 その結果、調教師の待遇も改善された為、常に馬に触れ合うことを無上の生き甲斐と感じつつ、黙々と馬の調教 に励む職人気質の若者達も徐々に増えはじめ、その結果初心者でも安心して乗馬が楽しめるようになり、子供達や 社会人になってから乗馬を始める人、又は一般の家庭の主婦達の間にも乗馬熱が高まり乗馬人口は急激に増加し 乗馬ブームに拍車がかかった。
 然し、中には少し乗れる様になると自分の技術を過信して調教師への指導料の支払いをけちり自分勝手に乗る 様になり結局乗馬の真の面白さを味わう事が出来ぬまま乗馬を断念する者も出るようになった。
 それは彫刻の世界でも言えることで、上手になる過程に於いては絶対に手抜きや慢心は許される べきものではない。


粘土像に石膏を塗布して石膏の牝型を創っている所、その牝型に石膏を流し込んで石膏原型を創る。

一般に彫刻家は「木彫家」と最終的にブロンズによって作品を仕上げる「塑造家」に分類されるが、塑造家は 創った粘土の像をまず石膏の原型にする必要があるが、複雑な粘土の像になればなる程、石膏原型取り専門の職人 の技が絶対に必要になってくる。
 彼らは過去何代にもわたってその技を受け継ぎ、塑造家の創った粘土像と寸分違わぬ石膏像を仕上げる技術を 身につけている。
 然し、最近では石膏取りの職人に支払う費用を惜しむあまり自分で石膏原型を創る塑造家が増えている。
 悲しいことに彼らは塑造家としての誇りを捨て自分で石膏原型が取れるように簡単な粘土像のみ を創るようになってしまった。
 元来、芸術の根源は自己表現という祈りにも似た感情であるはずであり、こういう物を創りたいという強い願望と 自からの限界に挑もうという強い意志が絶対に必要なはずなのだ。
 しかるに、この祈りにも似た自已表現を唯石膏に取りにくいからと言うことで自分の純粋な感情を敢えておさえて 石膏原型の取りやすい粘土像を創るということは塑造家としての良心の欠如、ひいては彫刻に対する冒涜以外の 何物でもない。
 然し、それはあくまでも塑造家本人の問題であって、第三者がとやかく批判するつもりはない。
 唯その結果、石膏取りの職人の仕事は減少する一方でその上芸術的石膏原型のとれる職人が高齢化している今日、 後継者を養成する人も皆無とあっては彫刻界にとっては大問題と言わざるを得ない。

今改めて日本の昔の職人達の生き様を思い返してみよう。
 完壁主義を貫いた昔の職人達は名声等には目もくれず、作品の完成度を競い合い、そこに生き甲斐と自尊と名誉を 懸けて製作者としての「責任」と「誇り」をこめて唯黙々と仕事をこなしていたではないか。
 そこには芸術家等という意識は微塵もなかった。
 かつて私がイタリアのピエトロサンタという彫刻家の集まる村に行った時、マリアー二社という有名な鋳造会社の 社長が私に対していみじくも言った言葉を思い出す。
 「ミスター西村、私は貴方の御希望を100%満足させる石膏原型を創る自信があります」と。
 そしてその村にいる彫刻家達は自分で石膏原型をとる様な事はまずしていない。
 従って石膏とりや鋳造をする所が日本では大体家内工業であるのに対し、イタリアでは従業員を多く抱えた会社が 大半を占めている。

残念なことに今日本の彫刻界では石膏原型のとれる職人が近い将来いなくなることが明白であるにも拘らず、 そのことに対し警鐘を鳴らし対策を講じようという彫刻家の偉い先生達はいない。
 仮に今その対策を立て、石膏取りの新人を募集したとしても、その新人の生活費の出所も又新人を教える人も 数少なく、その上、新人が一人前になるには少なくとも10年の歳月を要することも考えると絶望的な気分になら ざるを得ない。
 乗馬倶楽部振興協会の創設者、T氏の遺影の前で私は改めて彼の先見の明と行動力に敬意を表し、脱帽して 心より彼の御冥福をお祈りした。
 乗馬クラブを技術的にも経営的にも非常に優秀な長男に譲り、悠々自適の生活を送った彼は、きっと天国で 戦前の騎兵将校達に囲まれて「よくやった」と褒められていることだろう。
 願わくば彫刻界に於いても第二のT氏の現れんことを。

如何せん、この駆け出しの塑造家はこの現実を前にして切歯扼腕するのみである。

以上
影の聲:そんな事で歯軋りする暇があったら自分の老後や家族の心配でもしてはどうだ。
以上