携帯電話
(2007年11月号)

数年前から会社で緊急の連絡用にと無理やりに携帯電話を持たされた。
 然し、十数年前の手術によって、やっと動いている心臓のことを考え、又ポケットの中でゴロゴロするのがいやで 今迄特別の用事のない限り持ち歩く事はなかった。
 従って携帯電話は常に私の家の机の上にあったが使用したことは殆どなく、その電話の音を聞いたことはなかった。
 処が今年の8月20日、どういう風の吹きまわしか、まったく無意識に携帯電話をポケットに入れて家を出た。
 そして銀座で友人の個展を見ての帰り、渋谷にある中央競馬会の関連施設に立ち寄って馬のいろいろな資料を見て いたら何とポケットの携帯電話が鳴るではないか。
 一体、誰が掛けてきたのかと思って出てみると、会社の事務員からで、今、男の人から電話で西村さんの友人のT氏が 亡くなったので私に知らせて下さいとの事だったと言う。

亡くなつたT氏とは50年来の付き合いで、彼がドイッ語の話せるのを良いことに二人だけで何回もドイツに馬を買いに いったり世界選手権を見に行った事もあった。
 又私の馬を十数年間にわたり彼の乗馬クラブで預かってもらった関係で、彼とは毎日の如く一緒に馬に乗っていた仲 なのだ。
 早速、彼の乗馬クラブに電話をすると、驚いたことに彼は2日前の夜中にベッドの中で熱中症による急性心不全に よって亡くなり、今日の午後6時からお通夜だという。
 お通夜に間に合う様にとすぐさま電車に飛び乗ったが、不思議なのは一体誰が会社に電話をしたのかという事だ。
 第一、馬乗り仲間で私の会社の電話番号を知っている人はまずいないはずであり、普通なら私の自宅に掛けそうな ものを、何故わざわざ会社に電話してきたのだろう。
 しかもお通夜の当日の午後に私への連絡方法は私の携帯電話以外になく、又その電話番号を知っているのは家の者と 会社の人達しかいないのだ。
 帰宅途中の電車の中でいろいろと考えてみたもの、私にはまったく思い当たるふしはなく、しかも会社の事務員は 相手の名前を聞かなかったという。

亡くなつたT氏との出会いは今から50年前に遡るが、当時私は毎日の様に多摩川沿いにある乗馬クラブで新馬の調教に 余念がなかった。
 そんな或る日、相変らず馬に乗っていると何となく人の視線を感じたので、その方向に目をやると一人の青年が 私の事をじっと見ているではないか。
 その青年は、世田谷にある園芸高校の学生で将来は馬に関係のある仕事をするのが子供の頃からの夢で、たまたま 高校の近くに乗馬クラブのあるのを知り見に来たのだという。
 それから程なくして彼は乗馬クラブにアルバイトとして住み込む様になり、日本大学獣医学部に入ってからも私達の 馬の世話をしながら本人も熱心に馬に乗るようになった。
 それから約10年後、彼は日本馬術連盟より馬術の本場ドイツの国立乗馬学校に教職者として馬術留学を命ぜられ、 帰国後は独自に乗馬クラブを設立し、馬術のプロとして多くの優秀な選手を育ててきた。
 そして今から3年前、彼は(社)全国乗馬クラブ振興協会の副会長となり、全国の乗馬クラブの指導者の育成や 乗馬クラブの発展の為に尽力することとなった。
 又彼のクラブが日光の今市にある関係で今市の名士としてロータリークラブの会員になった。

かって私もロータリーの会員だった事もあって、今市のロータリーに招かれて卓話をさせて頂いたが、彼程ロータリーの モットーとする奉仕の精神の旺盛な男はなく、彼こそロータリーアンにふさわしい男である旨の話をさせてもらった。
 彼は常に自分の様な男が、この様に一人前の暮らしの出来るのは馬があったお陰で、もしも自分が学生の頃馬との 出会いがなかったら今の自分はないと話し、最初の就職先である多摩川の乗馬クラブのオーナーを常に「オヤジ、オヤジ」 と慕い、何かにつけて実の子供の様につくしていた。
 又私に対しても、自分に最初に馬術の手ほどきをしてくれた人として一目おいて、「社長、社長」と言って競技会で 会った時等は懐かしい昔話に花を咲かせたものだった。
 一例を挙げると、私が彼のクラブから別のクラブに馬をつれて移った時も、嫌な顔一つせず、私の鞍の 前橋(ゼンキョウ)(馬の き甲 =背のすこし上の部分)の内側にそっと「お守り」をしのばせてくれたり、又ドイツ行きの飛行機の中で私が好きだから と言って日本から持参のお抹茶をたててくれた事もあった。

半世紀に及ぶ彼との思い出は容易に書きつくせないが、兎に角大急ぎで家に帰った私は例の如く心をこめて般若心経を 写経し、やっとお通夜に間に合う事が出来た。
 広い式場一杯に飾られた数えきれない盛花は、日本全国の乗馬クラブや馬術関係者から贈られたもので、その白い花の 中で微笑む彼の遺影を見ていたら、何となく彼が私にお別れが戸いたくて電話を掛けてきてくれた様な気がして涙が 溢れてきた。
 何故もっと早く私に連絡をしてくれなかったのかと葬儀の関係者に詰問したら、私の処には当然一番先に連絡した ものと思ったとの事だった。
 個人競技である馬術は常に勝った負けたの世界で、考え様によれば私達のような馬乗りは総てがライバルであり、 なかなか心を許さぬものだが、それでもなお技術的な事を抜きにした純粋な心で付き合ってくれる人達を私は何人も 知っている。
 これはやはり馬という言葉の通じない動物を相手に、常に馬の気持になって行動する「 (ジョ)」の精神がなければ本当に馬と語り合う事が出来ない ことが自然と身について、人にもその様に接するようになるのかも知れない。

馬一筋に人世を貫き通し、一気にダートコースを駆け抜けるサラブレッドの如き彼の66年の生涯は、短くはあったが然し、 彼にとっては幸福な一生だったに違いない。
 彼の戒名には「白楽」(昔の中国で牛馬の優劣を見分ける人)の2文字が誇らしげに輝いて見えた。
 心より彼の冥福をお祈りする

(合掌)