男子の本懐
(2007年8月号)

7月24日から始まる個展の準備に忙しい私の所に娘が一冊の単行本を持ってやって来た。本 の名前は城山三郎の「男子の本懐」。
 聞けば高校2年生の孫娘が学校の宿題としてその本を読んで感想文を書かなければならないと言う。
 何日も前から娘と孫が…緒に本を読んでみたものの、なかなか上手く書けないので助けてくれと言うのだ。
 思い起こせば、私の二人の娘が大学生の頃、学校に提出するいろいろな論文を総て私の父に頼んで書いて もらっていた。
 早々と隠居して、絵を描いたり囲碁を楽しんでいた父は孫娘達からの論文の依頼を非常に楽しみ にしていたようだ。
 それをいいことに娘達は自分の宿題以外に友達の分まで父に頼み、多い時には5〜6人の宿題ま で書かしていたように思う。
 その当時の事を思い出した娘は、きっと私に自分の娘の宿題をやらせても罰は当らないと思ったに違いない。
 この忙しい時に何と言う事を、と思ったが、バレーのレッスンの為に1週間に5日、夜7時から11時迄、 学校の試験の時も風邪で熱のある時も小学生の頃から1日も休まず往復2時間かけて通い続けている孫の根性に免じて 私もその宿題を引き受けることにした。

その本の「男子の本懐」は1930年11月、愛国杜員に東京駅頭で狙撃され、翌年その傷がもとで世を去った、時の 総理大臣浜口雄幸が、撃たれた直後に発した言葉である。
 そしてこのノンフイクション小説は、彼の1才年上で彼の真の心の友であり、且つ浜口内閣の大蔵大臣・井上準之助 との一生を綴ったものである。
 この二人は、育った環境こそ違い「静」の浜口、「動」の井上として、共に大正及び昭和初期の激動の時代に一命を 賭して国政に尽くし、そして共に凶弾に斃れた政治家である。

この小説は、序章で二人が活躍した時代の背景について述べ、第一章では浜口雄幸の生い立ちについて触れ、 彼の母から常に「男らしい人間になれ」と言われ続けて育ったこと。
 そして第二章では井上準之助の生い立ちが綴られているが、彼は家族の人達、殊に母親から常に疎んじられ続け、 それなら「大臣にでもなってやろうか」と大分県から一人上京する話し等が述べられている。
 次いで第三章から第六章迄は浜口と井上が共に出世街道を遭進する過程を交互に紹介し、浜口は煙草専売局を 皮切りに大蔵大臣・内務大臣となり、井上も又正金銀行副頭取を経て日銀総裁として金解禁の大事業と取り組む事と なった話しが興味深く綴られている。
 そして第七章以降は、この二人が激動の時代の波に曝され、軍部等の周囲の雑音に反発しながら日本の国を正しい 方向に向けようと身命を賭して働いた末、浜口は前記の如く東京駅頭にて凶弾にたおれ、井上も又浜口の後を追うかの 如く、やはり選挙運動中、東京の本郷で3発の銃弾にたおれる迄の経緯が語られている。
 そして最後に二人の盟友の墓は青山墓地東三条の木立の中に死後も猶お互いに呼び合うかの如く仲良く並んで建ち、 2基とも位階勲等など麗々しく印すことなく、唯「浜口雄幸の墓」「井上準之助の墓」と、俗名だけが書かれている というところで終っている。

私が生まれた昭和5年に実施された金解禁は、第1次世界大戦の非常事態下で、やむなく金本位制を中止していた世界の 主要国は、対戦終結後共にこの措置を解除したのに対し、その解禁の機を失した我が国は円の為替相場が動揺し、慢性 的な通貨不安に悩まされていた。
 当然の事ながら金解禁は歴代内閣の最重要課題となっていたにも関らず、いずれの内閣も正面からその問題に取り 組もうとせず、その懸案を先送りしていた。
 何故ならば、解禁に踏み切るには、まず金準備を増やし、強力な緊縮財政によって国内の物価を引き下げる必要が あったからだ。
 しかも金解禁は即効性がなく、実施後も国際競争力がつくまで、不景気に耐える必要がある。軍事費削減を拒否する 軍部、行政改革に反発する官界、不況を嫌う財界の強い抵抗を予想しながら、しかも国際競争力をつけ財政基盤を 固める為にはどの様な苦難が待ち受けていようとも不退転の決意で断行するのが政治家の使命だと二人の意見は 一致した。
 浜口内閣の最大の課題は言う迄もなく金解禁と軍縮だった。そしてこの二つの課題に敢然と立ち向かった浜口は その親任式の夜「すでに決死だから、途中、何事が起って中道で斃れるようなことがあっても、もとより 男子の本懐である」と妻子に告げている。
 同じ頃、井上も妻の千代子に「自分にもしものことがあったとき、後に残ったおまえが、まごつくようではみっと もない」と土地、預金などの財産目録を書き出して手渡している。
 既に二人は密かに死を覚悟していたのかも知れない。

現在、日本の抱えている借金は国と地方を合わせて767兆円。それがこの1年間で6兆円も増加するというのに 今の内閣は「上げ潮政策」で景気がよくなれば増収になるから心配ないという。
 然し実際には金利も上がることになるから借金の返済はそんなにうまく行くはずがない。
 一方、官僚たちは相も変らず独立行政法人や公益法人に退職金をもらって天下り、談合で税金を 無駄遣いしている。
 議員は議員で財政再建に本気で取り組もうとはせず相変らず豪華な宿舎を建てて、いざとなれば消費税を上げれば いいと思っているらしい。
 国からの補助金を受けている公益法人からの政治献金は税金の還流に外ならず、官僚や政治家が率先して税金の 無駄遣いをやめ、財政再建に命懸けで取り組まねばならないのに今の政治家達は日本の国の将来より自分の命と財産の 方が遥かに大切らしい。

昭和4年10月15日、井上は各閣僚を歴訪して根回しした上で次の様な政府発表を行った。
 即ち、15日の閣議において政府は官吏俸給および在勤俸の削減を下記の如く決定した。


年俸千二百円      据置
〃 千四百円      六分減
〃 千六百円      七分減
〃 千八百円      八分減
〃 二千円以上     一割減
各省大臣(八千円)    一割二分減
総理大臣(一万二千円)  一割六分減。と。

この様に政府が敢えてこれを断行するのは政府自らが実践躬行範を国民に示すことで、この未曾有の経済難局を打開 する以外に途が無いことを国民に知らせる必要があったのだ。
 そして、この政策をとることによって総選挙では打撃を受ける事になるだろうが、そのような人気を気にしている 暇はないとまで言い切った。
 自・民・社等とさも国民の為の政党だと言いながら、今の政党は国民の為等考える 暇等まったくなく、選挙に勝つことを最重点課題だとしている。今の政治家達に浜口、井上の爪の垢でも 煎じて飲ませてやりたい気分だ。
 そして更に井上は「願わくば民間の銀行会社でも政府の例にならい、比較的高給者の減俸を行うよう官民協力して もらいたい」と言っている。
 公的資金の導入と超低金利政策によって経営が軌道に乗った途端、既に退職している過去の赤字経営を招いた 重罪人である銀行役員に対し、退職金を支払うという銀行の無神経さには呆れるばかりだ。
 約1日かけて本を読み論文を書いた「男子の本懐」、孫の宿題のお陰で明治生まれの二人の真の 政治家の生き様に接することが出来た。

この記事が掲載される頃には選挙の結果が判明しているが、どっちに転んでも大差は無い、願わくば第二、第三の 浜口・井上の出現することを。
 それにしても「男子の本懐」!何という心地良い響きだろう、男子と生まれた以上、一生に一度は「男子の本懐、 悔いは無し」と言ってみたいものだ。

以上

(この文は一部新潮社版「男子の本懐」の中で赤松大麗氏が書いていた解説の文章を引用させて頂きました)