緩和医療
(2007年7月号)

緩和医療 あまり耳なれない言葉だが緩和医療とは、もう絶対に治らない病気なら延命中心というより 苦痛の緩和を中心とした医療をほどこすべきだと言う発想から生まれた医療である。
 今年4月の毎日新聞の「みんなの広場」欄に杉並区の女医さんが「経管栄養せず、悔いなく生き たい」と言う見出しで次のような文を書いている。
 「私が、いつか認知症や脳梗塞になって、自分で食べ物が飲み込めなくなっても、経管栄養はしないで ください。ほんの少しの点滴をして加れを告げたい人に会わせてください。その日まで悔いがないよう 一生懸命生きていきます。長期にわたる介護で、家族に精神的、経済的苦痛を与えたくないのです。
 病院には、経管栄養で生かされている沢山の患者さんがベッドに横たわっています。
 家族が訪ねても全くわからず、チューブを抜かないように両手にミトンがはめられています。
 これが世界一長寿国の日本の現状です。4年後の療養病床削減を控え、介護する家族は、受け入れ先を 求めて右往左往することでしょう。どんなに医学が進んでも死は避けられません。一人一人が納得した死を 迎えられるように、普段から家族と話し合って、医療を受けたいものです」と。

 59 才のこの女医さんは、まだ若く、理想の死を想定して自分の方から死に接近しているのだという余裕から このような文章を書いたのだと思う。
 危険な心臓の手術を経験し、死を実感として味わったことのある私ですら、一応健康をとりもどした現在では 彼女の考えに共感を覚える。
 然し、この私も徐々に老衰が進み、やがて排泄(はいせつ) や食事、入浴等の基本的な日常生活が自力で出来なくなった時、要するに死の方から私に迫ってくると感じた 時、果たしてこの女医さんのように自分の死を割り切ることが出来るだろうか、正直いって自信がない。
 そこで今回はあえて自分なりに心の整理をする意味で安楽死や尊厳死について考え、万一の場合残される 家族に迷惑がかからないようにしようという寸法なのだ。
 思い起こせば今から12年前、私は自分の葬儀の式次第について細かくこの馬耳東風に書いたことがあり、 生老病死のうち老病死については家族の者達に感謝こそされあまり迷惑をかけずにすむと思っている。

ところで安楽死と尊厳死という言葉はややもすると混同されがちのように思えるので私なりにここで整理すると 、安楽死とは医師が患者本人の意志に基づいて薬等を積極的に投与して死に至らしめる事であり、尊厳死は 一生命を維持するためのさまざまな治療を中止して患者の尊厳をもって死を迎える事が出来るようにする事だと 思っている。
 要するに患者自身の意思表示がなければ安楽死とは言えないのだ。
 然し、本来の安楽死とは、高齢化が進み、次第に衰弱して枯れ木が朽ちて倒れるように自然に亡くなる事で 本人は何の苦痛もなく、死に顔も平穏で美しく、いかにも極楽浄土に召されたと思われるように人間として 最も美しい理想的な死に方が安楽死なのだ。
 ところが現在一般に使われている安楽死とは、治癒不可能で死期も近く患者自身も肉体的苦痛に耐え切れず 死なせてほしいというはっきりとした意思が示された時、医師が何らかの方法で死に至 らしめる事を言うらしい。
 そしてこれが今日では安楽死をさせる上で法的に問題にされないというか医師が罪にならない最 低の条件となっているのだ。

昨年2月、50代の男性医師が脳内出血で呼吸停止状態の80代の女性患者の延命措置を、家族や近親者の強い 要望によって中止し人工呼吸器を外したところ、死期を早めたことが殺人にあたるとして和歌山県警妙寺署が 和歌山地検に書類送検するという何とも不可解な事件が新聞で報道された。
 延命措置を中止するよう命じた者達は殺人にならず、その命令を断り切れずに実行した医師だけがそれも 殺人幇助ではなく殺人罪にとわれるとは、とんだ貧籤のような気がしてならない。
 つい最近、超党派の「尊厳死法制化を考える議員連盟」なるものが、延命中止法案要綱案という 案の案を発表したが、これに対し日本医師会が終末期が画一的な取り扱いになってしまう恐れがあ るとして法制化に反対しているというから、いずれこの案の案も有耶無耶になること疑いなしだ。
 従って、医師や家族の人達の迷惑にならないように尊厳死を実行するには一定の病気になった時、 例えば老人性痴呆状態とか植物人間になった時には絶対に延命措置はとらないで下さいと生前はっ きりと遺言状を書いておく以外にない。
 日本尊厳死協会という何ともおかしな協会が、いろいろと延命措置等について法制化をすべく動 いているようだが、それはあくまでも個人が尊厳を保ちながら死を迎えたいという個人の意思の間 題であって法例化するのはむずかしいように思う。

要するに人間が持つている命の尊さを、どう捉えるかが問題で、神聖な人命を本人以外の人間が不自然に 延ばしたり意識的に短縮したりと人工的に扱うべきものではないが、そうなると今度は脳死は本当の死か否か 等という宗教観を交えた厄介な問題が起ってくるので、その様なややこしい事には関係なく私個人としては 贅沢のようだが本当の意味の安楽死、即ち老衰により枯れ木が朽ちて倒れるように死にたいものだと思う けれど、それが叶わず老衰が進み基本的な日常生活が自力で出来なくなり、勿論彫刻等も創れなくなったり 又は老人性痴呆状態や植物人間になった時には前記の女医さんの言う通り私個人の尊厳を何とか保 たせて頂きながら延命措置は一切しないで頂きたいと遺言するつもりでいる。

そもそも、治る見込みもなくその上意識もない患者を、最後まで最善の努力をしたという家族の見栄や 自已満足から末期治療を延々と続ける家族の多いのは、その費用を総て健康保険で賄っているからできる事で、 健康保険から支払われている末期医療費は実に9千億円を超えるという試算もあると聞く。
 然し、故人に対する愛情を云々したいというのなら醜い形骸をいつまでも眺めて、その面影を心に止めて おくより、美しく懐かしい思い出だけを、とっくりと胸に収めておいてもらう方が故人にと ってはどんなにか嬉しいに違いない。
 少なくとも私は醜い形骸を親しい家族の人達にいつまでも晒すのは死んでも真っ平御免である。
 第一、意識もない患者の末期医療費を健康保険で支払う等、健康保険の加入者や納税者にしてみれば、 到底納得のいくものではなく、末期医療費を総て本人負担にすれば本人も家族も 真面(まとも)な判断をするようになり、 法制化もすっきりとするはずである。

政治家達も選挙の票が気になるかも知れないが「尊厳死法制化を考える議員連盟」等という勿体振った連盟を 設立するより、「末期医療費は総て本人負担とする」と決めるくらいの度胸がほしい。
 人の一生を航空機の空の旅に例える人がいるが、せめて人生の最後の着陸だけは、スムーズに周囲 の人達に少しでも迷惑のかからぬよう、そしてショックの少ない着陸がしてみたい、それがパイロ ットの最後の腕の見せ所なのだから。

以上
(柏木哲夫著「死を看取る医学」参考)