倒産トーチャン
(2007年6月号)

私の事を二人の娘は冗談半分「倒産トーチャン」と言う。
 たしかに私は三十数年前、自分で始めたプラスチック関係の会社を整理したことがあるが、 敢えて私の名誉の為に書かせて頂くと、それは決して倒産ではなく、従って仕入先や得意先等には一切 迷惑はかけていない。
 然しその経験を通して、つくづく資金力の乏しい一匹狼の脆さを痛感した私は、それから2年程して寄らば大樹の影と 今度は先輩のすすめもあって、ある大メーカーの代理店となった。
 新会社はメーカーの特別な支援もあって急速に業績を伸ばし、僅かな内に全国に6ヶ所もの支店 を設けるまでになった。

とこが、その会社もある事情から十年目にして親会社が新設した会社に吸収され、私も社員とともにその会社に入る こととなった。
 然し、不幸にしてその新会社に再就職させることの出来なかった一部社員の為に、責任を感じた 私は小さな会社をつくり何とか生計が立つようにした。
 それから数年後、定年退職した私は今度は正式に自分の創った会社の経営をみることになったが、 早いものでその会社も今年の4月で21年目に入った。
 然し、過去2回の会社経営の失敗は、いかなる事情があったにせよ所詮私の不徳の至すところと 反省し、娘達の「倒産トーチャン」の愛称を甘んじて受けている。
 何故ならば、嘗て会社の資金繰りがどうしてもつかなかった時、2軒あった持家を処分したり、自宅の家屋と土地の 登記済権利書の外に女房や娘達の定期預金まで担保にして借金をした事があったからだ。
 その当時の苦しい思い出は決して忘れることが出来ない。

話しは違うが、私はこれまでに7回もの手術をし、そのうちの心臓手術は成功率50パーセントという危険なものであった けれど、それでも私は何の躊躇(ためらい) もなく手術をする決心をした。
 何故ならば、それはまかり間違っても自分と家族だけの問題であり、 他人(ひと)様には一切迷惑がかからないからだ。
 然し、会社の倒産となると話しは別で、それは全従業員やその家族の人達の死活問題となるだけに悩みは大きく、 八方手をつくし、又いくら考えても解決策の見出せぬ時の苦しみは心臓手術を決断する時の苦しみの比では無い。
 眠れぬ夜が何日も何日も続き、蒲団に入るとますます目が冴えてくるので最初のうちは難しい本を眠くなるまで読んで、 疲れきって机に俯してうとうとしていたが、それも3〜4日すると急激に頬やこめかみの肉が落ちて目玉が飛び出し、眼鏡 のレンズに目玉がつきそうになり、その為にレンズが曇って本も読めなくなってしまった。
 又、本を読もうと思っても資金繰りの事が気になって、この件はいくら考えても良い解決方法はないと心で結論づけて いたのに、又してもその件が頭に浮び、堂々巡りの繰り返しで一向に(らち)があかない。

その様な時には温目(ぬるめ)の風呂に目をつぶつて 入ると一時ではあるが悩みが消えたものだ。
 又或る時等は金策に行った先で断られ暗澹たる思いで目の前が真暗になって一歩外に出て、暖かい太陽の光を全身に 浴びた瞬間、何故か思いっきり外気を吸い込んで、お天道様と米の(めし) ではないけれど私にはまだ明るい太陽と吸うことの出来る空気があったと勇気を奮い立たせた事もあった。
 又、会社の苦しい最中(さなか) の決算月の3月30日に父が死に、お通夜に家に帰りたくても資金繰りがつかず、やっと決済の目途をつけてお通夜の最中に 家に帰ったところ何も知らない親戚の顰蹙(ひんしゅく)をかったこともあった。
 その様に悪戦苦闘の毎日を送っていた私は藁をも掴む思いでいろいろな経営者の本を読み漁り感銘をうけた文章の抜粋帳 をつくり、それらの文章に勇気付けられて何とか精神障害者にならずに済んだ。そのノートは私の机の引出しに今も大切に しまってあるが、伊勢丹の二代目・小菅丹治にはこの様な言葉がある。

 「い かなる障害が眼前に横たわつていようとも、今迄歩いてきた道を 弊履(へいり)の如く捨て去って新しい安易な道を選ぶことは誤り である。困難から遠ざかることは、とりもなおさず成功から遠ざかることである。執着心、不嶢不屈、七転八起、 あくまで目的を貫徹せねばやまぬ、たくましい精神こそ物事を成就する原動力である。
 人世は運・鈍・根だといわれるが、どうにもならない運でさえ、それは待つものではなく自分からつくるものである。 悪運の時でも努力を傾倒し、悪運に戦いを挑めば、悪運は尻尾を巻いて退散するに違いない、その努力の継続が鈍・根、 すなわち執着心である」と。
 無くした金は又稼げばいい、失った信用でさえ誠心誠意をつくせば又回復することが出来る。
 然し、意欲を失うとその人の人生は終わる。
 経営の神様、松下幸之助は倒産と大病と死ぬる思いの失恋をしない人は一人前の経営者にはなれないと言う。
 喜寿を迎えた今日、不幸にして私は失恋の味だけはいまだに味わった事がないが過去2回の事業の失敗を教訓に 今の会社は社員の物心両面の幸福だけが事業の総てだとの信念のもとに頑張っている。

 「三 度目の正直」とは、物事は、一度目、二度目は失敗したりしてあてにならないが、三度目は確実であてにできる ということの他に、三度目の失敗は許されないということだ。
 とにかくこの歳になって「倒産トーチャン」にだけはなりたくないというのが私の今の偽らざる心境である。

−以上−

 栃木県護法寺住職 中島教之 書(画像を左クリックすると拡大します)