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運命を決めた一言
(2007年3月号)

私には、困難な事に直面して気が挫けそうになった時、きまって思い出し私を勇気づけ励ましてくれる今は亡き 友からもらった有難い一言がある。

昭和26年3月26日、第22回全日本学生馬術選手権大会の最終日、前日迄3位だった私は、優勝する為にはもう1回の 障碍(しょうがい)のミスも許されない と意を決して、抽選で決められた馬に騎乗し最終の障碍飛越競技のスタートを切った。
 今迄に一度も騎乗した事のない4頭の馬に2日間にわたって代わる代わる騎乗し、馬場馬術競技(アイス・スケート の規定の様なもの)2回、障碍飛越競技2回、計4回の競技を行ない、その総合得点で順位が決まるこの大会は、 普段乗り馴れた自分の馬に騎乗しての競技と違い、どの様な馬でも乗りこなす技量の持主でなければ決して優勝 することは出来ない。
 従って、この選手権で優勝することは、馬術を志す学生にとっての最高の栄誉であると同時に日本の馬術界に於いても 高い評価を得ることになる。
 経路の中程迄非常に良いリズムで順調に飛越を続けていた私の馬は、何に驚いたのか、それ程難しくもない障碍の前で 突然前肢を揃えて前に突出し飛越を拒否してしまった。
 その瞬間、私は頭の中で、「あ、これで優勝は無くなった」と思い全身の力が抜けたのを覚えている。

とその時、1年後輩のT君の鋭い声が私の耳に入った。
 「先輩まだ勝てる、諦めるな!」。
 その声に気を取りなおした私は、それ以後の障碍を細心の注意を払いつつ何とか無過失で最終障碍を飛越し終えた。
 そして私の後から出場したそれ迄1位と2位だった選手は、ともに数回の過失を犯した為、結局私はT君の言葉通り 優勝する事が出来た。
 もしも、あの時、彼のあの一声がなかったら、恐らく私は気落ちしてその後の障碍でもミスを犯し到底優勝賜杯 (高松宮杯)を手にする事は出来なかったと思う。
 勝負の世界では優勝こそに価値があり、優勝と準優勝とでは天と地の開きがある。優勝賜杯に吊前が刻まれ後世に その記録が残るのは優勝者のみであり、決して2位、3位の選手の吊前が刻まれることはない。

この事は、大相撲の千秋楽を思い出して頂ければ容易に紊得頂けると思う。
 結局そのお陰で私は幸か上幸か人生の大半を馬と過ごす羽目になったが、然し、馬と暮らした60年は無駄ではなく、 喜寿を迎えた今日では馬の彫刻を創り、又馬に(まつ) わるエッセイ等も書くようになった。
 つまり、馬のお陰で私の人生は大きくその行動範囲を広げ、何とか濡れ落葉にならずにすんでいるというわけである。
 そしてあの時のT君の「まだ負けたわけではない、頑張れば勝てる」の一言は、その後の私の長い人生の中で常に私の 脳裏に焼き付いていて、逆境の時、事業に失敗した時、そして心臓病が悪化してもう駄目かも知れないと思った時に常に 私に勇気を与えてくれて新たな戦いに挑むことが出来たのは、あの時の一言によって見事栄冠を勝ち取 った時の晴れがましさが心の中に(よみがえ) ってくるからなのだ。
 上可能なことに挑戦するのは愚かな事だと人は言う。然し絶対に上可能だという事を一体誰が証明するのだ。 「人は最後まで絶対に諦めてはいけない。生きる為に挑戦するしかない」。
 私はT君のあの一言によって人生に生き甲斐を見出し、常に前向きに考える事の大切さを学んだと思っている。

碧巌録に「啐啄同時(そつたくどうじ)」という言葉がある。 何事にも「今だ!」という一瞬があるように、この「啐」とは(ひな) が卵の殻を内側から(くちばし)でつついて破ろうとする事を言い、 又その瞬間すかさず母鳥が殻を外からつついて殻の割れるのを助けることを「啄」と言う。
 即ち、啐と啄とが同時に行なわれた時、雛は此の世に生まれるというのだ。
 修行者が啐の心を起こした時、師はすかさず啄をもって修行者の悟りを助けてやるというのがこの啐啄同時なのだ。 そして、このような一瞬は我々の一生のうちでも幾度かある様に思うのだが、その一瞬に気がつくことは非常な幸運と 言わねばならない。
 T君の一言は、まさにこの啄の一語につきると私は思っている。
 そして何か事件が起きる度にこの一言を思い出して彼に感謝するのだが、悲しいかな私は若くして他界した彼にこの件を 話してお礼を言う機会を失ってしまった。

あれから56年、喜寿を迎えた私は今では馬術競技への出場は諦め、彫刻に生き甲斐を見出そうとしているのだが、 情無い事にこの数年自分の表現力の乏しさに悩み続けている。
 芸術の根源は自己表現という祈りの感情だと思うのだが、芸術に完成が無い以上この世界は鬼の世界であり、常に虚空を 遍歴し続ける世界であることは重々承知の上、私は今回も又T君の励ましの言葉を思い出し、この悩みを闘争のエネルギー にかえて啐し続けようと思っている。
 いつか啄が現れて私の悩みを一時的にせよ解消してくれることと信じて。
 又、この場合の啄の事を彫刻の方では「天使が降りて来る」と言うが彫刻の啐は粘土との格闘以外に決して天使が降りて くることはない。然し、最近私の心の中では何となくマグマが() いているのだが、点火剤のないまま爆発しないで() り続けている。

私の今年の運勢は「人事を尽くして天命を待つ」とあるから、爆発する迄啐し続けるしかない。
 求めよ、さらば与えられんの格言を信じて天使の降りてくるのを待つとしよう。

-以上-