美  育
(2007年2月号)

2006年12月1日からカタール国ドーハで開催されたアジア競技大会の馬術競技は、死者1名(韓国)を出したものの 日本は全競技に於いて予定の金メダルは50個を獲得し12月15日無事終了した。
 そしてこの馬術大会4種目の採点表は総て競技終了の翌日には私のもとに屈けられ、お陰で各国選手の活躍振りを (つぶさ)に知ることが出来た。
 今回の馬術大会4種目のうち、審査員の主観のみによって順位が決定する馬場馬術競技(Dressage)は各選手が行なう 約30の運動項目毎に5人の審査員が審査用紙に細かくコメントをつけながら採点し、その5人の採点の合計点で順位が 決定するという競技である。
 尚、この競技の採点結果は各選手の演技終了後、直ちに各審査員毎の採点が競技会場に設けられたどの様な点数をつけたか が選手は勿論、一般観客にも一目でわかるようになっている。
 従って、例えば一審査員が自国の選手のみに異常な高得点をつけたとすると、忽ち他の4人の審査員の点数と比較され 非難の的となる為、故意に無茶な審査が出来ない仕組みになっている。

にも拘らず、今回ある国の審査員(B)は自国の4名の選手に1位〜4位の高得点をつけた。
 他国の審査員の順位と比較しても、明らかにB審査員の順位は高く、結果としてその国は個人、団体とも金メダルを 獲得した。
 この様に、国際大会で自国の選手に故意に高得点をつけるケースは馬術に限らず他のスポーツにも往々にして見られるが、 あまり褒められたものではない。
 従って、この様な事態の起こらぬ様に各運動種目別の国際競技連盟では公式審査員に対し常に講習会等を通して審査基準を 一定にすべく努力はしているが、国際大会が国対国の試合だと勘違いをしている審査員や大会役員がいる限りこの傾向は おさまらない。

もっともアジア大会の馬場馬術競技は国際大会といってもオリンピックや世界選手権のグランプリ種目と違い中級程度の 運動のみを馬に要求している為、その採点は馬の歩様(ほよう) の優雅さ、推進気勢(すいしんきせい) の旺盛さが重要な採点要素となる為、個人の主観によってバラツキが出るのも或る程度うなずけるが、それにしても今回の 採点は成績表を見る限りではどこか釈然としないものがある。
 元来、「美しさ・優雅さ」は知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすものであり、更に「快」が生理的・ 個人的・偶然的・主観的であるのに対し、「美」は個人的利害関係から一応解放されより必然的・客観的・ 社会的なものであると広辞苑にも明記されているように、優雅な躍動美を追求する馬場馬術競技では殊に個人的利害関 係や主観的感情は極力おさえて採点すべきなのだ。
 そしてこの事は彫刻や絵画等の一応芸術といわれる世界に於いても言えることで日展等の一般の公募展等に於ける 審査員は当然のことながら個人的利害関係から解放され、より必然的・客観的・社会的な見地から判断すべきものだと思う。

然し芸術の世界では馬術競技と異なり不特定多数の審査員に対して一定の審査基準を設けることが不可能である為 その審査結果を公表する事が出来ず一般公募者に対する当落の通知には一切コメントがつけられていない。
 その結果、何回応募しても認められない作家の中には自分の作品に対する自信を失い愚かにも自分自身の才能に 見切りをつけてしまう作家のいることも又事実である。
 最近教育基本法の見直しが、しきりと取り沙汰され、政治家は唯、漠然と「美しい国造り」を目指しているようだが、 この際ぜひ学校本来の目的である知育・徳育についで美の鑑賞と創作能力を養うことによって人格の向上を目指す教育、 即ち「美育」を加え、美意識を高めると同時に、美しい心を持った子供達を育てる教育を推進して頂きたいと思う。

世間では「知育・徳育・体育」とよく言うが、学校に於ける体育はあくまでも保健体育の範囲以内に止めるべきであり、 「体育」を広辞苑で引くと「健全なる身体の発展を促し、運動能力や健康で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を 豊かにすることを目的とする教育」と明記されている。
 即ち学校における体育は相手と技を競う為のものであってはならないというのが私の50年来の持論である。
 美育によって美しいものを真に美しいと感じる心の余裕を持った子供達は自分の中に美に対する一つの基準を身に つけることによって、決して有名な作者の作品だというだけでその作品の価値を決めるような下劣なことは決してしなく なるだろう。
 今後益々進歩するであろう技術革新は確実に人間性の消失につながる。

人間は能力を超えた道具を持つ時、身体的能力のみならず精神的能力をも退化させる。
 技術革新はある意味で人間を未熟化し、社会をも脆弱(ぜいじゃく) にしてしまう。
 この際政治家が「美しい国造り」を目指したいのなら、学校における「美育」を復活させ、知育・徳育と合せて 人間性の定義を確立すべきである。
 然し、悲しいかな、弱肉強食、金が総てだとあらゆる機会を捉えて教育されつづけている現代の子供達に美しい心を 植えつけるのは至難の業だ。だとすると、その次の世代の子供達に一体誰が学校で美育を教えるというのだ。
 今こそ真剣にこの問題にとり組まないと、2500年前いみじくも釈迦の説いた末世の時代がやって くることになりかねない。

世の政治家達は地球温暖化を心配する前に全人類の心の問題を考えるべきではないだろうか。そうでないと地球温暖化で 地球が滅びる前に人間の心によって地球が滅びてしまうような気がしてならない。

−以上−

《私の手元に届けられた採点表》 (画像を左クリックすると拡大します)