刻苦勉励(一年の計)
(2007年1月号)

新年明けましてお目出とう御座います。  新年早々私事で恐縮ですが、今年5月で喜寿を迎える私は年賀状に「運命は神の考えるものだ、 人間は人間らしく働けばそれでいい」と漱石の言葉を引用させてもらった。
 然し、改めて刷り上った年賀状を目にした時、私は「人間らしく働けばそれでいい」と書いたそ の言葉に何となくひっかかってしまった。
 一体人間らしくとはどう生きればいいというのだ。漱石は「どう生きよ」と言いたかったのだろう、と。
 三木清は「人生は運命だ」と言ったが、それは唯、一生懸命に生きて後の結果は総て神仏に任せ ればそれでいい、その結果は運命と受け止める以外にないのだという意味で、これも又人間らしく ということの解答にはなっていない。

禅の言葉の中には「諸悪莫作(ショアクマツサ)衆善奉行(シュウゼンブギョア)(モロモロ)の悪を ()すこと (ナカ)れ、 (モロモロ)の善を 奉行(ブギョウ)せよ等とい うのもあるが、つまる処、人間は善因善果・悪因悪果を信じ、神仏を信じ、人を愛し、美しいもの を() でる生き方以外にはないと勝手に決めて、今年はぜひその様に生きてみようと決心した。
 そして毎年の慣例にならい今年の運勢やいかにと興味津々、神宮館高島暦の自分の星を見た途端愕然として しまった。今年は前述したようなそんな生易(ナマヤサ) しい考えでは到底この一年無事に乗り切れそうになかったのだ。
 七赤金星、77才のそれはまさに最悪の低迷運と出ていた。
 「いかなる情勢の変化があろうと、毅然たる姿勢を保つ事、一時的感情から軽率に進退すれば失 うところ多く運も失う。ただし刻苦勉励して後に事を成すという向上発展の意も蔵しているから人 事を尽くして天命を待つ事」とあった。

今から十数年前、或る事情から会社を整理することになり、当然の事ながら土地も家屋も担保にとられ、 その上心臓病の悪化から手術以外に助かる途もなく、まさに八方塞がりの時、自分の人生もこれで終わりなのかと 藁をも掴む思いで買った神宮館高島暦の卦が意外に良く、私の将来は努力すれば満更捨てたものでもないと思い 頑張ったお陰で何とか今日迄やってこられたという経緯がある。
 以来毎年、年の暮には高島暦を買って一年の計画づくりの参考にしてきたのだが今年程悪い卦の出たことは (カツ)てなかった。
 唯一つの救いは刻苦勉励して後の事を成すという向上発展の意も蔵しているから、何年先の事だかわからないが 時節の来るまで実力の涵養に努めることとあった事だ。
 この刻苦勉励という言葉は、家を新築する為にそれまで住んでいた家を取り壊した際、納屋の箪笥の裏から 出てきた色々な書類の中に父親が私に修一という名前をつけた由来を書いたメモが出てきて、それによれば修一 という名前は刻苦勉励すれば最後の勝利者になるという名前だと書いてあった。
 私の60才の時の事だ。

やはり私は刻苦勉励しなければ人並みの人生は送れない運命にあるのだとガッカリしてしまった。
 然し、刻苦勉励しても将来がないという人よりは上等だ。それならば親父が息子につけた名前通 り、やってやろうじゃないか。幸いなことに私には己を忘れて打ち込める彫刻という途が残されて いる。喜寿を機に新しい人生の出発点として刻苦勉励の新しい挑戦を始めようと決心した。
 刻苦勉励とは読んで字の如く心身を刻み苦しめるほど努力を重ねることだ。
 なかなか難しいことだが唯、私にとっての救いは彫刻に於いて今迄と異なる新しい表現方法を見 出す為に、心身を擦り減らす努力をすると云うことは一見矛盾しているようだがそれ自体一種の楽 しみでもあるし又生き甲斐なのだ。

私の東京のアトリエを家族の者達は「パパ小屋」という。
 何故ならば私のこれ迄の人生には常に犬小屋と馬小屋が付き纏っていた為、当然の成りゆきとし て私のアトリエは「パパ小屋」ということになってしまったのだ。
 そのパパ小屋の入り口に私は那須の護法寺の中島住職に依頼して 「遊戯三昧(ユゲザンマイ)」と云う額を掛けて 頂いた。
 遊戯三昧とは禅の修行に於ける最終の境地のことで、それを例えれば土木工事の現場で泥をシャベル ですくって地均(ジナラ) しをしている人夫に「代わってやろう」と言えば喜ばれると思うのだが、砂場で泥んこ遊びをしている子供の スコップを取りあげたとしたら恐らく子供は泣き出すに違いない。
 「なすことの一つ一つが楽しくて、命がけなり遊ぶ子供ら」というのがあるが、これが遊戯三昧 の境地であり私達には絶対に人に代わってもらいたくない一瞬一瞬があるのだ。

この一年何とかこの遊戯三昧の境地で乗り切ることが出来たら何時の日にか彫刻の新境地が 拓けるかも知れない。
 人生は戦争のようなものだ、一旦宣戦布告したら勝たなければ死あるのみだ。

今年の運勢がいかに悪かろうとも、自分で選んで歩き出した道だ。刻苦勉励又望む処だ等と 新年早々偉そうなことを書いてしまったが、実の処こう書くことで自分自身を縛りあげ我と我が尻 を鞭うたないとどうにも続きそうにないと思うからだ。
 果たして今年の暮に何とか努力したと自分なりに胸を張る事が出来るかどうか、とにかく頑張っ てみようと思うが、叶わぬ時の神頼みではないけれど来年の卦が良いことを願うばかりである。

−以上−