日々是好日
(2006年10月号)

8月のお盆の前、やっと2〜3日暇が出来たので久し振りに軽井沢に行くことにして朝早く家を出た。
 途中、練馬の関越自動車道に入るまでは相変わらずの交通渋滞で、ノロノロ運転を繰り返していたら何となく12年間 乗り続け15万キロも走っている愛車の調子がおかしくなってきた。
 それでも何とか目的地まで辿り着きたいと騙し騙し走っていたが、どうにも耐え切れず 「甘楽(かんら)」という所でJAFを呼び結局その車をトラックに積 んでもらい、兎に角軽井沢まで運んでもらった。
 そして早速小諸(こもろ)のディーラーに連絡をとったが お盆休みの前日とあって、5日間は部品が入らず修理は出来ないという。
 結局車の修理が完了する迄の一週間、軽井沢に留まることになった。

こんなに長く軽井沢にいるのは心臓手術の前後の約二ヶ月間、静養していた時以来の事で、すぐ東京に帰る予定であった為、 粘土もなく、読みたい本も持って来ず、一体どう時間をつぶせばいいのか途方に暮れてしまった。
 然し、この軽井沢という所は私にとって妙に仏心が湧いてきて、しきりと御先祖様のこと等が頭に浮かんでくる不思議な 所なのだ。
 それは心臓手術の前、もう二度と生きて浅間の山を見る事も出来ないだろうと思いつつ、娘の運転する車の助手席に 横になって峠を降りた時の事であり、その一ヶ月後、幸いに手術が成功して又軽井沢に来ることが出来て、庭に咲く名も 知らない花を始め、目に入る物すべてに仏様が宿っている様に思えて、しみじみと生きていることの素晴らしさを仏様や 御先祖様に感謝したい気持ちになるのも此の軽井沢ならではのことなのだ。
 以来十数年、御蔭様で身体の調子も良く、忙しさにかまけて、つい忘れてしまっているその当時の事等、東京では決して 思い出す事の出来ない事柄をしんみりと思い出すのだ。
 今回は、ちょうどお盆の時期でもあり、この7日の間、その当時の事をじっくりと考えてみろという御先祖様の粋な 計らいによる車の故障に違いないと思い、お酒も若干控え目にして神妙にこの数日を過ごす事にした。

お彼岸もすぎると軽井沢の空は青く高く、澄んだ空気につつまれて、ゆったりとした時間が流れる。
 76才の現在、7回も手術した割に私は元気に毎日を過ごしている。健康ほど有難いものはない。
 一.「日々是好日」雲門禅師(唐末)・碧巌録第六則
 二.好日。かけがえのない・絶対。

 「過ぎ去れるを追うことなかれ。
 いまだ来たらざるを(ねが)うことなかれ。
 過去、そはすでに捨てられたり。
 未来、そはいまだ到らざるなり。
 されば、ただ現存するところのものを、
 そのところにおいてよく観察すべし。
 揺らぐことなく、動ずることなく、
 それを見きわめ、それを実践すベし。
 ただ今日まさに()すべき事を熱心になせ。
 たれか明日死のあることを知らんや。
 まことに、かの死の大軍と、
 遇わずというは、あることなし。
 よくかくのごとく見きわめたるものは、
 心をこめ昼夜おこたることなく実践せん。
 かくのごときを、一夜賢者といい、
 また、心しずまれる者とはいうなり」。

(一夜賢者教)

又、水上勉の「一日暮らし」の書きだしはこんな文章で始まっている。
 「たった一日でよい。あすも、あさっても生きたいと思うから、この世がめんどうになる。今日一日を何とか、 人に厄介をかけず健康ですごせたらと、そればかりの工夫なら、雨でも嵐でも、まあ辛抱できるというものだろう。 かりに天気にめぐまれても、たとえば家にもめごとが起き、辛い思いが生じないともかぎらない。それだって一日の ことなら、まあ辛抱もできると思う」と。
 元来この「一日暮らし」の提唱者である白隠禅師の師といわれた信州飯山の正受老人(僧名を道鏡慧端)は 「一日一日を思へば、退屈はあるまじ、一日一日つとむれば百年千年もつとめやすし。何卒一生と思ふからたい そうである。一生とは永いと思えど、後の事やら翌日の事やら、一年二年乃至百年千年の事やら知る人あるまじ。 死を限りと思えば、一年にはだまされやすし、と。一大事と申すは今日只今の心也。それをおろそかにして翌日あること なし。総ての人に遠き事を思いて謀ることあれども的面の今を失うに心づかず」と言っている。

そうだ此の心を忘れないようにしよう等と今この原稿を書きながら思いつつも、その瞬間これで一ヶ月は「コア」のことは 考えずにすむが東京に帰ったら早速約束の馬像も創らねばならず、何はさておき会社に行って、親会社の新任の社長 や銀行の支店長とも会っていろいろと打ち合わせをしなければ等と思いつくままに手帳に書き込む始末、何とも情け無い ことだが、農耕三昧に生きた正受老人のようには私は到底生きることは出来ない。
 一鍬一鍬が念仏だといった人がいたと聞くが、そんな念仏の時代はとうにすぎた、仏家の時代はすでに遠い日のことと なったのだ。
 然し、この老人の「一日暮らし」の心はいつの時代でも忘れたくないものだとつくづく思う。
 そう思いつつ外を見ると秋の雨が静かに降っていた、山の天気は変わりやすい、秋から冬にかけて時々サアッと降る 雨の事を「時雨(しぐれ)」と言う。
 良寛の詩に
 “日々日々に時雨の降れは人老いぬ”
 というのがあるが何故か今の私には山頭火の句がいつまでも頭に残る

“音はしぐれか”
以上
 (月刊誌「ナーム」心の伝言板参照)