道草を喰う
(2006年7月号)

今から52年前、私は中学・高校・大学を通して馬術部で常に一緒に馬に乗っていた親友のM君を事故で失った。
 彼は皇居内で開催された馬術競技会で障碍を飛越中、馬と一緒に転倒して即死したのだ。
 その競技種目(中障碍飛越競技)には学習院の大学生だった今上陛下もエントリーされていたが、当時の慶魔義塾大学の 塾長・小泉信三氏の意見を入れて棄権される事なく、M君が転倒した白樺の固定障碍だけを除いて外の選手と同じ様に全経路 を飛越して頂いた。断乎として宮内省の意見を入れなかった小泉塾長は偉いと思う。
 今の小泉さんなら何と言うだろうか、非常に興味のあるところだ。
 彼が飛越に失敗した障碍の4〜5mの処にいた私は、同じ大学の馬術部員というだけではなく、共に皇居内の乗馬クラブに所属し、 彼が転倒した馬には、その1週問前に私も騎乗して別の競技会に出場しており、何ともやり切れない思いがした。

クリスチャンであった彼の葬儀の日、私は教会で一枚のカードを頂いた。
 「汝等知らずや、競走の場を走る人は(ことごと) く走ると(いえど)も、賞を受くべきは一人のみ、汝等受くべき 様に走れ」(コリント前書9章24節)と書かれたそのカードを、若かった私は試合着の胸ポケットに入れて、どのくらい競技会に 出場したことか。
 私は唯、彼と一緒に障碍を飛んで優勝したいという思いからカードを胸に競技会に出場し、お陰様で随分と賞を頂いたが、 その「賞を受べき様に走れ」という意味が、馬術競技の賞ではなく、神様から頂く賞だということに気付き、それ以来人生と いう競走の場で何とかして神様から賞を受けたいものと、そのカードを家の仏壇の引出しに入れて大切に保管している。

井上靖はその著「傾ける海」の中で「人間というものは、生きているという事に多少の意義がないと生きて行けないものだ」と 書いている。
 私も馬に人生の総てをかけて小学校3年生の頃より60数年、未だに何とか馬によって生きていることの意義を見出そうと馬に 乗り、馬の彫刻を創り、又馬に関するエッセイ等を書き続けているが、50を過ぎた頃より自分のこの様な生き方が、あまりにも 高価な道草ではなかったかという疑問を持つようになった。
 「道草を喰う」を辞書で引くと、「馬が路傍の草を食べて進行が遅くなる意から、途中で暇を費やす横道にそれて手間 どる事」とある。
 私の書斎には栃木県大田原市・護法寺の住職・中島教之師の「人が経験することに無駄なことは一つもない、道草人生は ゆたかだ」という書が懸かっている。
 かと思うと、やはり中島師の「無駄な汗は幾らかいても無駄 いい汗をかこうというものもある。
 更に、「思いを尽くし 汗をつくし 愛を盡くせば 悔いはない」という書もある。
 これらの書は一見矛盾しているように見えて、実はそのどれもが真実なのだと私なりに納得している。

私が現在馬の彫刻を創り、こうやつてエツセイらしきものが書けるのも、今迄の道草のお陰だと思えば、満更無駄ではなかった ような気もするが、無駄な汗といえば、小学生の頃より昭和の間垣平九郎といわれた大先生の指導を受けた馬術でさえ、実は 当時のヨーロッパの超一流の馬術家達の馬術観とは全く異質のものであり、最近になってやっと二流の師匠からは二流の事しか 教わる事が出来なかったのだと悟り、少年の頃身についた間違った癖の矯正は不可能に近く、その為に随分と無駄な汗を流した ものだと悔やんだが後の祭り。(この場合の二流とは大変に複雑な意味が含まれている)
 「正師に会はざれば学ばざるに如かず」という言葉があるが、スポーツ選手は決して二流、三流のインストラクターに習っては いけない、習えば習う程下手になるということを月刊こ銘ずるべきなのだ。(この場合は本当の二流・三流の意味)
 然し、何か一つの事に生き甲斐を見出そうと60数年、一所懸命に努力していた時間は間違いなく私にとって幸福な時間であり、 その間私は道草を喰っているとは(いささか)かも思ったことはなかった。 要するに「思いを尽くせば悔いはない」ということになるのだ。
 唯、悔いは残らないといっても、たった一つしかない貴重な人生、出来ることなら無駄な汗は流さず効率よく歩みたいものだと 思うのだが、悲しいかなずるずると年を重ねた結果、「酔いしれて さむる間もなき夢のうち うたて(情けなく) はてなむ あはれ世の人」と教わった勝海舟の心境になりかけている。

話は違うが、今私と一緒の家に住んでいる孫娘3人のうち、高3年の娘はジュニアフィルでチェロを弾いており、もう1人の 高校1年の娘は幼い頃よりバレーを習い、数年前から熊川哲也氏が主催する「Kバレースクール」に通い野菜と海藻類が主食の ような生活を送り、2人ともその総てをチェロとバレーに賭けて頑張っている。
 いずれも私の可愛い孫達だが、彼女達の将来を考える時、どうか「うたてはてなむ あはれ世の人」とならねばいいが、 果たしてこれで本当にいいのだろうかと不安に思うときがある。
 私の場合は馬術というごく限られた世界であった為、一応日本馬術界では常に日の当たる道を歩む事が出来、それなりの 生き甲斐を見つけて今日迄来たが、チェロやバレーの世界は馬術界とは桁違いに人口が多く、又競走の激しさも並ではない。

孫達はそれぞれ、将来に対し夢と希望をもつてその道一筋に努力しているのだが、ひょっとして一時的にもせよ挫折感を味わう ような事があった場合、どう切り抜けてくれるだろうか、「人間万事塞翁が馬」と割り切ってくれるだろうか、その毎日の 取り組み方が真剣なだけに老婆心ならぬ老爺心ながら心配でならない。
 然し、彼女達も毎日の練習の中でいろいろな事を考え、いろいろな事を経験して案外逞しく成長しているのかも知れない。
 道草もその道草が真剣なものであるならばそれは単なる道草ではなくなるはずだ。そこに「人が経験することに無駄なことは 一つもない 道草人生はゆたかだ」の言葉が生きてくる。私はその一語を信じて今日も又馬の彫刻を創りながら孫達の 成長ぶりを楽しみに見守ろうと思う。