ジャッジの使命
(2006年2月号)

 (それは唯、当落及び順位をつけるだけのものであってはならない)

柔道のような格闘技、又は陸上や水泳競技のようにタイムによって勝負のつく競技の外は大概ジャッジの判定又は採点に よってその勝ち負けや順位が決まる。
 そのような競技にあって、特にジャッジの主観によって左右される芸術点の採点に於いては、往々にして選手とジャッジ との間でその採点をめぐってトラブルが発生する。
 正式な馬場馬術競技では、5人のジャッジが20m・60mに仕切られた馬場の正面と左右に設置されたジャッジボックスに 1人ずつ入り、それぞれ違った角度から各自の判断によって30〜40項目にわたる運動課目毎に、それぞれコメントを記入し たうえで10点満点の採点を行うことになっている。
 そして1人の選手の演技が終わる度に5人のジャッジの採点表は係員によって直ちに集計され、5人のジャッジ毎の採点 と合計得点が電光掲示板によって一般観衆に公表される。
 従って総ての選手の演技終了の数分後には全選手の得点が判明し、その得点の多い者が上位となる。
 又、競技終了後、5人の採点用紙は選手当人に手渡され、各選手は各自の演技について5人のジヤッジがどのような評価 を下したかを、その採点表に記入された各運動課目毎のコメントと点数によって知ることが出来、その資料を参考にして 次の競技会に備えることとなる。
 然し、判断のむずかしい芸術点となると、各ジヤッジの主観や解釈の相違から、1人のジャッジの採点だけが極端に 悪かった為に、その選手の平均点が大きく下がり優勝を逸するというケースも発生する。
 その結果、ジャッジと選手との間に競技終了後の採点をめぐって激しい論争が展開され、最悪の場合は二度とジャッジが 出来なくなったり、又将来有望な選手がそれによって馬術に対する情熱を失うケースもある。

唯この様なケースはごく稀で、大概はジャッジ・選手双方の反省材料として双方納得の上、次回からのジャッジの判断力と 選手の技術力向上につながることとなる。
 このようにジャッジ本来の使命は、唯単に選手の順位を決定するだけのものではなく、より優秀な選手を育てることを その主たる目的とし、ジャッジのつけた審査用紙は選手に対するラブレターとして大いにその役目を発揮する。
 又技術力の向上を目指す選手達は、優秀なジャッジのコメントを仰ぎたくて競技会に出場する選手もいる程なのだ。
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従って、馬術競技に於けるジャッジの責任は極めて重く、何千万円もする馬を購入し、専属のトレーナーを雇い、日夜懸命 に練習を積んで試合に臨んでいる人馬に対し、かりそめにも安易な気持で採点をすることは断じてあってはならない ことであると同時に、それは選手に対する最大の侮辱以外の何物でもない。
 まして世界選手権やオリンピックの出場権をかけた選考会でのミスジャッジ等は論外であって、 (いち)ジャッジの辞任等で済む問題では断じてない。
 最年長の選手として、又(かつ)て長年にわたりジャッジ に携わってきた私は、時偶(ときたま)国際大会等に出場 している選手・ジャッジ双方から、それらの論争の意見を求められることがある。
 然し、私としても実際にその人馬の演技を見ていたわけではなく、 迂闇(うかつ)な結論は出し得ず、各科目毎の芸術性についての 私の意見を述べるに止め、なるべく双方に話し合いの機会をつくり仲裁役をっとめることにしている。
 このように、馬術の世界、殊にヨーロッパでは常に選手の技術力向上を第一に考え、ジャッジの講習会を頻繁に開き、 芸術点の採点の統一を計っている。
 然し、一般に絵画や彫刻のような芸術といわれる世界の審査方法には、私が審査員になった経験がないので確かなことは 言えないが長年にわたり馬術界で(つちか)われてきた 私の感覚とは相容れないものがある。

展覧会等に出品されている作品に対する審査員の評価は、唯単に芸術性に欠けているから駄目、芸術的に見て優れていると 認められるから良いということで、審査員の挙手の多数決によって出晶作品の当落が決定するらしい。
 更に聞くところによれば、審査員のうちの何名かは一般の会友から選ばれ、その審査員の個々の作品に対する評価が 当を得たものであるか否かによって、というか挙手をしたかしなかったかによって会員に推挙されるという。
 私の場合は唯、世界一美しい動物である馬への恩返しのつもりで自分の本能の止みがたい力の発露として馬の像を創って いるだけで、べつに芸術作品を創ろうとか一般大衆に褒められたいと思ったこともないので、私の作品に対する審査員の 評価は気にしたこともない。
 然し、今より少しは増しな馬像を創りたいという欲望はあるので、いずれ審査員にいろいろと聞 いてみたいとは思っている。

私の所属している彫刻団体が毎年春に開催する公募展にも非常に多くの応募作品が日本全国から上野の東京都美術館に搬入 され、それら総てを展示するだけのスペースが無い為、止むを得ず (ふるい)にかけるのだとは思うが、やはり馬術競技のよ うに審査用紙を作り、各審査員毎のその作品に対するコメントを添えて作者に送付してもらいたい。
 一流の審査員の作品に対するコメントは恐らく落選した応募者の今後の大いなる励みとなり、ひいては日本彫刻界の レベルアップにもつながるものと思うからである。
 読者のなかには、馬術と芸術は違うと思う人がいるかも知れないが、ヨーロッパでは年間約3万頭の乗馬が生産され、 その中で殊に気立ても頭も良く、その上優雅な動きをする立派な体格の馬を選び、一流のトレーナーと騎手・獣医・ 装蹄師・馬取扱人がチームを組んで数年にわたり鍛え上げ磨き上げた結果、最後にグランプリの演技をマスターして 国際大会に出られる馬は僅かに2〜30頭、それらの馬の動きは“アンナ・パブロバ"の舞うチャイコフスキーの白鳥の動き に勝るとも劣らぬものがあると私は信じている。
 一流の馬術関係者達が心血を注いで造り上げた馬は正に超一級品の動く芸術作品であるばかりか、その作品に作者自身が 騎乗して、まるで雲の上を飛ぶが如き気分を味わうことの出来るスポーツは馬術をおいて外になく、その演技さえも立派な 芸術だと思っている。

だいたい光悦作の白楽茶碗、不二山と志野茶碗、卯花墻(うのはながき) のどちらが芸術作品として点数が上だ等という人もいないと思うが、仮にそれらの作品に順位をつける審査員がいる としたら、それは正に切腹覚悟の審査をせずばなるまい。
 今年トリノで行われるオリンピックのフィギュアの予選会で一旦は金メダルまで首に下げた選手の心のうちは本能寺で 明智光秀に殺された織田信長の心境もかくばかりと推測されあわ哀れを禁じ得ない。
 二度とこの様な無様(ぶざま)な事態が起きないよう 馬術・芸術をとわず諸々の審査に携わる人達の自覚を促す次第である。何事によらず人が人を裁き採点するという事は 法華経にいう「一大事」なのだから。