新年お目出とう御座います
今年も又勝手なことを書かせて頂きたいと思いますので、何卒御容赦の程お願いします。
正月。1年の最初の月を何故正月といっのか、陰暦では2月を如月
、3月を弥生
というように1月も睦月
で良いと思うのだが何故殊更に1月だけを正月というのかわからない。
そこで正月の「正」の字とはどの様な意味があるのかと改めて辞書をひくと「ただしい事」「間違いのない事」とあった。
そうしてみると1年12ヶ月のうち1月だけが正しい月で、あとの月は全て偽
りの月、ということになりはしまいか。
それとも1年の最初の月だから、せめてこの月だけでも正しく暮らしたいという細
やかな願いをこめて正月としたのだろうか。
そういえば以前「正」の源字は「人が真直ぐに歩く姿」の象形文字から来たのだと聞いたことがある。
それで新しい年を迎えるに当たり「悪を止め善を勧める」という意味を込めて正月としたものかも知れない。
然し、「正」の字には「正解」「正確」のように正しいという意味の外に「正午」「正面」の如く「きっかり」という意味や
「正本」のように「もとになる」という意味もある。
そこで御多分に漏れず、この私も1年の計は元旦にありで、これからの自分の理想の将来像をどう過ごそうかと模索した緒果、
健康に留意しながら馬の彫刻一点に的を絞り全力投球することにした。
そして、これが馬術家(2001年度馬場馬術世界ランキング82位)西村の馬の彫刻だと自分自身に胸の張れるような独自の
スタイルを確立してみたいと思う。
馬に乗り始めて65年、戦争中も休むことなく本当に良い馬に触り続けた(駄馬はいくら触っても何の役に立たぬばかりか、
手や目が腐るだけ)彫刻家は、そうざらにはいないはずだ。
更に、この15年間で馬の骨格や筋肉は大体頭に入ったと思う。
人生120年の時代では61〜90才ぱ実りの秋、収穫の時期ということになっている。そうしてみると76才はちょうどその真中で、
満60才から始めた私の彫刻も、実りの秋、収穫の時期の真っ只中という勘定だ。
馬への恩返しのつもりで始めた馬の彫刻も、これからの15年間で何とか格好をつけないと人生の食い逃げになってしまう。
詩人ソローンは「毎日何かを学び加えて老いてゆく」と語り、ソクラテスも老年に達してから竪琴を習い、ローマ時代の有名な
政治家キケロは歳をとってからギリシャ神話を学び大いなる知識を身につけたという。
人間の肉体は目や耳のように加齢によって衰えるものもあるが、美しい馬の像を創りたいという析りにも似た思いは、
老いて益々燃えあがってくる。
今からちようど1年前の平成17年の1月号に私は生意気にも自分の雅号を推歩としたと書いた。
推歩とぽ馬術にとって最も大切な馬のリズミカルに生き生きと優雅な歩様を生み出す推進力、推進気勢の推であると同時に、
馬場馬術の創始者ジェームス・フィリス氏の有名な言葉「前進・前進・常に前進」にも通じるものがあると思い、私のこ
れからの人生の歩みの願いを込めて推歩としたのだ。
然し、その後まだ一人前でもない男が雅号等とんでもないと反省し、自分なりに納得のいく作品が出来た時、改めて作品に
推歩と刻むことにした。
ところが、つい数日前、何気なく開いた本の目次に「一生を二度生きた人・伊能忠敬」というのが目に留まり、
パラパラと頁をめくってみて驚いた。
江戸中期の地理学者で我が国最初の実測地図の製作者、伊能忠敬は50才で隠居すると幕府の天文方、
高橋至時
の門に入り西洋の天文学の暦学や測量術の勉強にうちこみ、師の至時より「推歩先生」という
渾名をつけられたというのだ。
彼は17才の時、下総(千葉県)の佐原村の名主
の養子になり、50才の時迄一生懸命に働いて家を立派に再興するや、これからの余生は子供の頃か
らの夢であった学問の為に使わせてもらうと宣言し、測量術を学び74才で此の世を去る迄殆ど自費
で日本の地図を作り続けたのだ。
正に一生を二度生きた人というべきで、その人の澤名が推歩先生とはなんとも嬉しい限りだ。
私もこれからの人生、推歩先生を見習って納得のいく馬の彫刻創りに専念し、胸を張って推歩の
銘が刻めるよう努力したいと思う。
余談になるが生来負けず嫌いだった私は、約半世紀もの間、常に勝った負けたの馬術競技の勝負
の世界の中で日々を送っているうちにその負けず嫌いに拍車がかかり、自分でも可成り激しい気性
になってしまったと思う。
そして私の最終の目標は「ざまあ見ろ人生」を送ることだと
密かに思っている。
ざまあ見ろとは、憎らしく思っている人が失敗した時や、不運の時などに面白がっていう言葉だが、私の場合は他人に対して
ではなく自分自身に向って「ざまあ見ろ、弱虫だと思っていたこのおれも、このくらいのことは出来たじゃないか」
と言うことなのだ。
宮本武蔵は顕身の術というのを編み出したが、
それは自分のことを他人のように冷静に見つめることによって自分のスキを無くす術だという。
何年先の話か神ならぬ身の予測はつかないが、いつの日か死の床についた時、自分自身を冷静に
見つめて「ざまあ見ろ、おれの人生もなかなか捨てたもんじゃなかったじゃないか」と
呟きたいと思っている。
しかし、それは少なくとも今から15年後のことにしてもらいたい。
何故ならば今の状態では私は間違いなく周囲の人達から「ざまあ見ろ」と言われること請け合いだからである。
「老後は一日にしてならず」