慶應義塾の 若き学生
私はこの校歌が好きで今でも良く口ずさむことがある。
その普通部から今年の春、一通の手紙を受けとった。手紙の内容は1998年普通部の創立100年を記念して「目路はるか教室」
なるものを新設し、様々な分野で活躍している普通部の卒業生を講師とする特別授業を実施しているが、今回からは校
内授業に加えて校外講座を行う事にしたので、ぜひ講師になって頂きたいというものだった。
今迄にも私はいろいろな処で講演をしてきたが、早稲田大学の体育会の学生に対して「学生スポーツのあり方」について話しをした
以外は、その大半が各地区のロータリー・クラブでの卓話のように中高年の人達の集りで話すことが多く、従って
演題も「私の選んだ第二の人生」等というようなものであった。
然し、今回は中学校の校歌にもあるように、前途洋々たる中学校の生徒達がその対象となるのだ。
私はこの講義を通じて出来ることなら子供達に確固たる志を抱き、その目標に向って希望に胸をふくらませながら、学生としての
本分は何なのか、何が人間として本当の幸福なのかを、はっきりと示してやりたい。
そして受講生の中で仮りに一人でも私の話しに心を留めてくれる生徒がいたとしたら、こんな有意義なことはないと思い、学校から
の依頼を快く引き受けることにした。
これから「目路はるか教室」の行われる11月初旬までの2ヶ月半、私はどのような講座を設けたらいいか、又それに関連のある
校内授業の話しの内容を、じっくりと考えてみたいと思っている。
慶應義塾の創立者、福沢諭吉はその著「文明教育論」の中で「学校は人に物を教える所にあらず、ただその天資の発達を
妨げずして能くこれを発育する為の具なり、教育の文字甚だ穏当ならず、宜しくこれを発育と称すべきなり」と言っている。
人間には一人一人それぞれに天賦の個性が備わっているのだから、そのよさを十分に開花させることにこそ学校の
真の使命があるというのだ。
そして普通部の教育理念も又「自ら学ぶ普通部」ということになっている。
私の知人で、数校の小学校の校長を長年勤め教育のプロとして教育に関する膨大な本や論文を書いている男がいるが、
その彼が4〜5年前、「水辺の馬」という…冊の本を書いた。
これは云う迄もなく馬を水辺に迄つれて行くのは容易
いが喉の乾いてない馬に水を飲ませるのは
容易な事ではないという
喩えで、いかに子供達の
ムズカ
教育が難しいかということを縷々述べた本だった。
然し以前から私は教師という者は喉の乾いていない馬に自ら進んで水をゴクゴクと旨そうに飲ませるのが教師本来の役目であって、
それの出来ない者は教師としては失格だと思っていた。
よく馬を知らない教育者は「水辺の馬」という喩えを引用することで教育の難しさを力説したかったのだと思うが、馬乗りの端くれの
私でさえ馬に水を飲ませることなどいとも容易なことで、要は馬が喉の乾くような運動をものの4〜5分もしてやればいいことだし、
万一その時間が無ければ水の入ったバケツの中に少量の砂糖を入れてやれば事は解決する。
そうすれば馬は不承不承
ではなく、自ら進んで水を飲むようになるものだ。
この様にバケツの中に僅かな砂糖を入れるのがプロの技というものだと私は思っている。
又、数年前より文部科学省では過去の詰め込み教育に対する反省から授業時問を割いて綜合的な学習の時間を設け、子供達に
ゆとりを持たせ「自ら学び、考える力」を育成する為と称して「ゆとり教育」路線を進めてきた。
私はこれでやっと文部科学省の役人達も福沢諭吉のいう「発育」の意味がわかってきたらしいと思っていたら、最近の全国の
世論調査によると、この「ゆとり教育」を評価する者は僅かに25%で、何と65%の者が評価しないという結果が出た。
評価しないの理由は「学力の低下」を招いたからだという。
その結果に驚いた関係者達は又々以前の詰め込み教育にもどすべきだと騒ぎ出している。
子供達にゆとりを持たせ、自ら学び考える力を養うという立派な教育理念が、無能な教育者達によってこの様な結果を招いた
のだということを反省するどころか、「ゆとり」の意味を履き違えて又々以前の詰め込み教育を復活させようとしている。
優秀な調教師は、今自分が馬に行つている調教ぱ将来必ず良い結果が出るという確信があるから途中で馬が少々反抗しても
自分の信念を貫き通すものだ。
それは彼の長年の経験によって馬が反抗することを百も承知で馬の将来の幸福の為(競技会で良い成績を残せば確実に良い
待遇が保証される)にあえて当初の調教方針を曲げないのだ。
それに引き替え、未熟な調教師(私達はそのような人を調教師とはいわない)は馬の反抗に遭う度にその調教方針を変えてしまう、
というより調教の何たるかをまったく理解していないからだ。
その結果、最大の被害者となるのは馬であり、どう乗り手に対応したらいいのか頭が混乱して、しまいにはまったく人の言うことを
聞かない馬となり、ひどい場合には屠殺場送りとなってしまう例さえある。愚かな調教師の犠牲になるのは可哀相な馬であって馬に
責任は全く無いと言える。
将来のある純粋な子供達を屠殺場送りにしない為にも教育関係者の再教育が何としても必要だと思うのは私だけではないはずだ。
時間のある人は最近アートヴィレッジから出版された長谷川潤著「学校の常識」をぜひお読み頂きたい。
幸いにも今回話しのあった普通部は福沢諭吉の説くように、基礎を大切にして一人一人の多様な生き方の育成を目指して、
ゆとり教育、総合学習の良さを充分に発揮させようと目路はるか教室を設けたのだ。
さあ、11月初旬迄の2ヶ月半に、僅か1日半の授業ではあるけれど、どこまで子供達に夢を与えることが出来るか、私の楽しく
真剣な挑戦がこれから始まるのだ。