瓢 箪 か ら 駒
(2005年4月号)

  「生 命も出会いも、愛も性も、すべては偶然から生まれる。その偶然を一期一会としてすべて已が生きる道程のクサビとして深々と刻していく。 その証が彫刻を創る行為となり作品となる。運命でもなく、必然でもなく偶然。偶然と思い定めて生きるところに驚きがあり発見があり、すべてが 新鮮さをもって立ちあがってくる」。
 誰の文章か忘れたが実にうまい事を言うものだと思い5年前に作った私の彫刻の作品集に彫刻の (くだり) をつけたしてこの言葉を引用させて頂いた。
 偶然といえば、現在75才にもなった老人が退屈もせずに、なんとか生きていられるのも、元はといえば私が心臓病に (かか)り人生を(とく)と見なおす必要 に迫られた時、たまたま二人の人との出会いのお陰で彫刻を創り、エッセイを書く人生を送ることが出来る様になったのだ。

エッセイを書くようになつたのは、日本設備工業新聞社の長岡社長との出会いからであり、彫刻を始めた切っ掛けは日本中央競馬会の 藤家(ふじや)氏との出会いによるもので両者とも不思議なことに お酒を飲みながらの四方山語しの末に実現したものである。
 まさに瓢箪((ふくべ))から駒といわざるをえない。
 今から15年前、日本設備工業新聞社の長岡社長と私は新宿の天ぷら屋で一杯やりながら一別以来の楽しい話しに花を咲かせているうちに、 彼は今度自分の会社で「コア」という月刊誌を出版することになったが、何分にも空調衡生等の設備関係の専門誌なので、一つか二つ肩のこらない 記事を載せたいと思うのだが、君の今迄の経験をもとに競馬関係の記事を書いてくれないかとの依頼があった。

酒の勢いも手伝つて引き受けたのが縁で、今月号で180回、15年間も毎月欠かさず書き続けさせて頂いたことになる。
 その間、随分と勝手な事ばかり書かせて頂き、さぞ御迷惑なこともあったであろうと今思っても汗顔の至りだが、長岡社長には、まったく感謝の 言葉もない。
 又、彫刻も、やはり15年前、馬事公苑の藤家苑長と馬術関係者の集りの宴席で、たまたま馬事公苑の正門前の銅像設置の話しが出て、当時 心臓病が悪化して、いつ死ぬかもわからぬ身が、ひょっとして世田谷通りに私の馬の銅像が建てば、お墓の代わりにもなるし、こんな都合のいいこと はないと、ひそかに考え、これも酔った勢いで引き受けてしまった。
 従つて、今現在世田谷の馬事公苑の入口に設置されている馬の鋼像は、私の創った第一号の作品で、現在芸大の助教授をされているK氏のアトリ エで、彼の粘土を使って生まれて初めて本格的な彫刻に挑戦したもので、未経験の悲しさ大変に苦労したことを覚えている。
 今考えても、よくも厚かましく創らせて頂いたものだと思うが、その当時は自分のお墓を創りたい一心から薬を飲み飲み何とか手術の前に設置す ることが出来た。
 以来私の馬の銅像は全国に17基、緒局今現在私のお墓は17個ということになり、私が死んでも娘達はお彼岸に交通渋滞のなか、わざわざ多摩墓地 まで行かなくても手近な所でお墓参りが出来るというわけである。

又私が親しくお付き合いさせて頂いている護法寺の中島住職は、彼が社長をされている水書坊の月刊誌「ナーム」に「心の伝言板」という付 録を設けエッセイを書かれている。
 そして不思議なことに、その「心の伝言板」もやはりこの4月号で180回となっている。
 つまり、当時一面識もなかった中島住職と私は、15年前の平成2年5月号からそれぞれの月刊誌に1回目の記事を運載し出したことになる。
 私が書くエッセイも、たまに仏教関係の事でわからないことがあると大田区池上にある水書坊に中島社長を訪ね、原稿のネタを頂くことがあるの だが、まさに縁は異なもの味なものと言わざるを得ない。
 但しこの諺は、男女の縁はどこでどう結びつくか不思議なもので、実に微妙な緒びつき方をするものだという意味だが、その「ナーム」の3月号 (179)に彼は次の様な文章を載せている。

太陽が燦々とふりそそぐ真昼間、ぐでんぐでんの酔っ払いが祇園精舎にやって来て、「俺は今から坊主になるのだから釈迦を呼んでこい」と どなりちらした。それを聞いたお釈迦様は「おお、よしよし」と早速その酔っ払いの頭をつるつるに剃ってしまわれた。
 翌朝目を覚ました酔っ払いは、自分の頭に手をやって、びっくり仰天悲鳴をあげて一目散に祇園精舎を逃げ出してしまった。
 「本当に出家する気もない男の頭をなぜ剃られたのですか」という弟子の問いに、お釈迦様は、「彼の心の底には出家を願う気持ちがあるのだが、 酒の力を借りないと口に出すことが出来なかったのだ、唯、今はまだ出家になる自信がないので逃げ出してしまったが、いま形だけでも出家してお くと、いつかそれが縁となって出家できるかもしれない、いい種を蒔いておくと、いつか芽が出てくるものなのだよ」と言われた。
 つまり、私達はたとえ冗談であっても、その場限りでも、何かの勢いからであったとしても、 躊躇(ためら)うことなく、なすべきことはなすぺきなのだ、と彼の文は締めくくっている。

私の彫刻も、そしてエッセイも、まさに酒の勢いを借りてお釈迦様に頭を丸められた酔っ払いよろしく盲蛇に怖じずの瞼えの如 く躊躇無しに飛びついたお陰で、今こうして何とか毎日退屈せずに過ごさせて頂いているというわけだ。
 瓢箪から駒の人生もなかなか味なものといわざるを得ない。