明日迄には何としても、「コア」の原稿を書上げねばと悲壮な思いで机の前に坐ってはみたものの、少しも良い案が浮かんでこない。
はて、どうしたものかと頬杖をついて考えこんでいたら、フッと私の腕の時計が目に入った。
この時計は、ジャック・ロードというニックネームのあるローレックスで、半世紀以前の代物で、今から30数年前に亡くなった伯父の形見として頂
いたものである。
今迄に5回程オーバーホールに出して磨耗した歯車(パーツがなく総て手造り)や竜頭を交換したが今も健在で一度も休むことなく実に正確に時
を刻んでいる。
又、私の心臓も15年前に一部パーツ交換したりして大々的にオーバーホールをしたおかげで75年間1日も休むことなく(手術中約7時間程お休み)
1日約10万回も鼓動を打ち続けている。
時計といい心臓といい私の寝ている時も私のために一所懸命に働いてくれているのだと思ったら、感謝の気持ちと同時に何となくいとおしい気がし
て、今回はそんな感謝の気持ちを込めて「時間」について思いつくままに書いてみたくなった。
「刹
那覚えずといえども、これを運
びて止まざれば、命を終
ふる期、たちまちに至る」「寸陰惜しむ人なし、これよく知れるか、愚かなるか」。これは「徒然草」の中の文章である。
一瞬一瞬の時は短く意識することもないけれど、漫然と過ごしていると瞬く間に臨終の時が来るものだ。それを知っていながら、ほんの僅かな時間
を惜しむ人がいないのは、時間の制約を超越しているためか、それとも愚かで時間を惜しむべきことを知らないためなのだろうか、
という意味である。
今から、2〜3年前、「コア」の編集長だった岩田泰輔さんが「提言」という欄で時間について書いていたのを思い出す。
要約すると『時間は誰もが持っているユニークな資源であり、何人
もこれを取りあげることも又盗むこともできない貴重な財産である。自分の人生は自分の時間によってしかつくることが出来な
いのだから、私達が自分の人生をより深く愛しようと思うなら自分の時間を愛すべきなのだ。然し、惜しむらくはこの貴重な時間は決して明日に繰り
こすことが出来ない』。
大体この様な意味だったと思う。
「時間」についての格言を探してみれば、実にいろいろな人が、いろいろな表現を使って一寸の光陰軽んずべからずと言っている。
それでは、この私は一体どうだというのか、今改めて思い返せば、私はこの75年の人生の大半を常に「馬」を中心に総てのことを考え、馬に乗り、
馬の彫刻を創り、馬についてのエッセイを書いてその貴重な財産を浪費してきたような気がする。
家族の為、人様の為に尽くす等という考えは毛頭なく、唯々自分本位の考え方で生きてきた、もっと何か別の生き方があっても良かったのにと今
更惜しんでみても後の祭り。
まさに「しずかに思えば、よろずに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき」(徒然草)である。
日本男子の平均寿命が78.36才というから、もうそろそろ私にもお迎えが来てもおかしくないのだが、正直な話、どう考えても自分が75歳の老
人だとは思えないし又思いたくもない。
確かに老眼鏡をかけなければこの原稿も書けないし、自分の歯も半分しか残っておらず、耳も若干遠くなったと何時も女房に嫌味をいわれている。
けれども良い馬に巡り合えさえすれば、まだまだ全日本選手権等で上位に入賞する自信はあるし、腕相撲だって未だに慶應の馬術部の現役の大学生
に負けたことはない。
私はまだまだ気持ちの上でも肉体の上でもバリバリの現役なのだ。
然し、鳴呼何とも悲しいことに私には昭和16年12月7日、大東亜戦争勃発の前日に生まれて初めて馬(オリンピックに出場した大障碍馬、ギャロ
ッピング・ゴースト号)で障碍を飛越、いや正確には跨
いだ記憶があるし、終戦までの約1年間を鋳造工
として日本光学で潜望鏡の枠を創っていた経験もある。
だとすれば私の寿命はどう贔屓目に見積っても、
あと14〜5年という処か。
私の人生がもう2度とやりなおしのきかないものだとするならば、私にはやはりこれからも下手な馬の彫刻を創り続ける以外に残された道はない
らしい。
そうときまったからには、せめて生きているうちに何とかして自分自身に納得のいく馬の彫刻を創って後世に残してみたい。
兼好法師はいみじくも「身を養つて何事かを待つ、期する処、ただ老いと死とにあり、その来たる事
速やかにして、念念
の間に止まらず」。体を大事にして健康に気を配って、いったい何を
待とうというのか、あてにして待つ事の出来るのは、唯、老いと死だけである。しかもその到来はすみやかで一瞬の間もとどまってはいないと。
私はこれまでに十数基の銅像を日本各地に設置してきた、しかしそのどれ一つをとってみても私の未熟さの由に満足のいく作とはいい難い。
その上銅像はせいぜい100年か200年の命である。
縁あって知り合った北イタリアのピェトラサンタ(有名な大理石の山の麓の町で世界の彫刻家が多く住んでいる)の大理石加工会社マリアー二社
の社長は、大理石には永遠という意味があると言った。
然らば私も死ぬまでに一基でいいから納得のいく等身大に近い馬の群像を大理石で創ってみたいものだ。
西脇順三郎は「失われし時」の中で「人間は土の上で生命を得て、土の上で死ぬものである、だが、人間には『永遠』という淋しい気持の無限
の世界を感じる力がある」と書いている。
私も生きているうちに何としても納得のいく大理石の像を創ることによって、「永遠」という淋しい気持の無限の世界を味わってみたいものだ。
そうしないと、ゴアテックスという化学繊維の糸で修繕された私の心臓や伯父の形見の腕時計に対して申し訳が立たないというものだ。
以上が階前の梧葉に吹く風に秋の声を聞いている一老人の戯言である。
然し最後に私の本音を言わせて頂くと、私の為に仏様はきっとまだ若干の時間はお残し頂いていると思うから、その残された時間で「絶
対に今迄の遅れを取り返してみせる」、そう決心して我と我が腹を拍車で蹴り上げ、尻に鞭を入れているというわけである。