15
年前に始めた彫刻も悪戦苦闘の末、どうやらその序幕を降ろすことが出来そうな気がして、これからが私の本当の人生、私が此の世に生をう
けた証として何としても本舞台の幕をあけてみせると先月号に“百尺竿頭一歩を進む”と書いた。
そして75才になるのを機に、その竿頭から更に一歩を踏み出す為の弾
みとして生意気にも雅号を持とうと思い立ち、色々と思案の末、雅号を“推歩”とすることにした。
即ち、推歩の“推”は馬術で最も大切な「旺盛なる推進気勢」を常に馬に維持させるという意味の推であり、いかなる困難が待ち受けていようと
も常に前向きの考え方を崩さず前進するという意味である。
この雅号に気を良くした私は、これからが本当の人生だと模様替えしたアトリエの中で正月早々意欲的に粘土と取り組みはじめた。
然し悲しいかな一向に創作意欲を駆り立てる様な、これぞというイメージが湧いてこない。
結局創っては壊し、壊しては創るという暗中模索の繰り返しで、これが西村の馬の彫刻なりという彫刻のスタイルを創り出すことが
出来ずにいる。
従って百尺の竿頭から一歩を踏み出そうにも一体どの方向に踏み出せばいいのか皆目見当がつかず、いっそ目を
瞑って暗雲に踏み出そうものなら忽ち真逆様に地面にたたきつけられるのは目に見
えている。
何か天の啓示というか、彫刻家が良く使う私の心の中に天使が舞い降りてくれないものかと虫の良いこと考えてみたものの、どだい天使が舞
い降りられるような場所を用意していないのだから無理な話。
従って相も変らず虚空遍歴の日々が続いている。
彫刻家でもないのに一人前になったつもりで雅号等つくるから、こんな苦しみを味わうはめになるのだ、きっと雅号負けをしたに違いない等とも
考えてみたが、よくよく思い返してみれば、私にとっての彫刻は、生きる悩みと悦びの深い肯定を十二分に覚悟の上で始めたはずではなかったか。
果たして私は本当に彫刻家なのだろうか。
彫刻家という熟語には何となく私の嫌いな芸術家というイメージが付きまとう。
彫刻家という言葉には従来からあった「彫り物師」の師を、「芸術家」の家と入れ換えたよう
なもので、何となく近よりがたいニュアンスが漂う。
それならばいっその事、自分を彫刻家ではなく「彫刻師」と呼んでみたらどうだろう。
彫刻師・宮大工・佛師・彫り物師・棟梁・職人、そうだ、彫刻師には何となく江戸っ子職人のイメージがある。
考えてみれば中世の頃、ヨーロッパでは無名の石工達が聖天使や異形の悪魔や
怪物の姿を寺院の側壁に彫りつけていたが、彼等は決して自覚的なアーティストではなく単なるギルドの組合員としての石工職人であったにすぎず、
彼等がアーティストとして自覚しはじめたのはルネッサンスの時代からではなかったか。
そもそも私が彫刻の本舞台の幕をあけてみようと考えた動機は、何か自分の内に強い彫刻的予感のようなものが漢然と芽生えつつあるように感じ
ながら、しかしまだ彫刻的世界のある一部しか手にふれていないもどかしさがあった為に百尺竿頭一歩を進めたいと思ったのだ。
従って私は、どうしても生きているうちに彫刻的世界の奥行きの深さを認識し、それを我が手で掴みとる必要があるのだ。
そうでないと山本有三の路傍の石の次野先生の言葉ではないけれど、今迄生きてきた甲斐がないのだ。
そうだ、私にとつてその目的を達成する為には彫刻家であろうと彫刻師であろうと名前や雅号等まったく問題ではなかったのだ。
日本の昔の職人達の生きざまを思い返してみよう。
完壁主義を貫いた職人達は報酬や名声等には目もくれず作品の完成度を競い合い、そこに生き甲斐と自尊と名誉を賭けて製作者としての「責任」
と「誇り」をこめて最後に慎ましく銘を刻んだのだ。
そこには彫刻家という意識も、まして芸術家等という意識は微塵もなかったに
違いない。
そこに技術をもって独立自尊の精神を貫こうとした職人気質を感じとることが出来るではないか。
彼等の技は誇りにみちている。
12世紀の終わりから13世紀のはじめに現れた運慶・快慶のあの迫力を思い出してみよう。
彫刻を志して15年、誰に習ったわけでもなく60有余年、馬に触り続けた私の手の平の感触のみを頼りに始めた馬の彫刻、思いあがりも甚だし
いと思われるかも知れないが、馬を愛する心と、どこの誰よりも本当に良い馬に触り続け、それらの馬の美しい姿をこの目に焼きつけ、その姿をモ
デルにして美しい馬の彫刻を此の世に残したいという思いは決して人後におちるものではない。
それらの事を胸に秘め、私も決意を新たに日本の昔の職人達の心意気をもって、めげることなく粘土と格闘することにしよう。
そして、いつの日にか自分の作品に自信と誇りをもって銘が入れられる日を夢みつつ、その日の
来るまで雅号の“推歩"は私の心の中にそっとしまっておくとしよう。