小  学
(2004年12月号)

新宿の大久保に「笑楽一念生友の会」という変な名前の集まりがある。
 今から3年前、知人を通してその会から講演の依頼があった。
 その会の主旨は「かつては誰もがもっていた小学校一年生のころの好奇心と感動と遊び心を呼びさまし、純粋で新鮮な心で残りの人生を大いに楽 しもう」というものだった。
 その主旨には私も大いに賛成だったので、ついうっかりと「第二の人生」等という題で1時間程話をさせて頂いた。
 その会も無事終わり何日かした或る日、「笑楽校」からぜひ好調(校長)になってくれという申し出があった。
 今迄○○会の会長等という肩書きをつけられて得をしたためしのない私は、極力断りつづけたが、私は年4回の笑楽一念生友の会主催の講演会 の時だけ出席して一言挨拶をすればいいということだったので特に断る理由もないと思い引き受けることにした。

ところが、この笑楽校には好調の外にPTA快調・今日育委員・響頭・樂級担当等がいて、3ヵ月に1回食飲会議を開いて年4回の講演の企 画を立てることになっているのでその会にも都合のつく限り出席して頂きたいし、次の回のプログラムに好調として何か書いてくれといってきた。
 随分約束と違うと思ったが書くことに関しては別に問題はないので皮肉の意味もこめて「好んで人の師となる勿れ」という題で最近の子供達の教 育のむずかしさについて原稿用紙3枚程の文章を書いて送っておいた。
 そこで今回はその時の内容に少々肉付けをして書いてみようと思う。
 何故ならば私が好調をつとめる笑楽校の生徒達は別として、未来の日本を担うべき最近の子供達の心の荒びには目を覆いたくなるものが あるからだ。

非行・校内暴力・登校拒否・無気力症・引きこもり・いじめ・はては窃盗・殺人等々、毎日の如く新聞紙上を賑わしている事件も実は氷山の 一角にすぎず、先頃の佐世保のような幼い子供達の殺人事件がおきるたびに、世の教育者と称する人達は口を揃えて「もっと子供達に 生命(いのち)の尊さを教えるべきだ」という。
 然し、それでは一体どの様な方法で子供達に生命の尊さを教えるのか、残念なことにその方法については誰一人として触れようとはしない。
 私は前月号で私の9才の孫娘が可愛がっていた仔犬の死を目のあたりにして、ポツンと死について眩いた話を書いたが、肉親の縁に薄かった私は 12才までの間に、生みの母を初め継母・兄・妹とたてつづけに亡くしたが74才の今日迄、一体何人の肉親の死に立ち会ったことだろう。
 そして子供心に体験した「死」や「生命のはかなさ」は幼い心に強烈な印象を刻み込まずにはおかない。
 そこへいくと、最近の子供達は人の死に立ち会う機会はまったく無いといってもいいだろう。
 そのかわり、彼等はゲーム機を通して毎日のようにバーチャルな殺人を犯すことによって、生命の軽さは学んでも、決して生命の尊さを学ぶこと はない。

私のように幼い時に親兄妹のような本当に親しい人の死に立ち会わないまでも、自分が可愛がっていた仔犬や猫のような小動物が静かに目を 閉じてその小さな命を燃やしつくし、子供達の手の中で急速に冷たくなってゆくのを身をもって体験したことのある子供達は一体どのくらいいるだ ろう。

子供達によつて愛され可愛がられた小動物達は、きっと身をもって生命の大切さ、はかなさを彼らに教えてくれるに違いない。
 前月号で私は中国(そう)の時代の児童の為の道徳教 育の書「小学」についてふれたが、この「小学」の優れたところは知識と学問を単に論理的概念的に捉えるのではなく、肉体化し体現させる 処にあると思う。
 従って、この「小学」を「三つ児の魂百迄も」の喩えにもある如く、小学校にあがる前の子供達に徹底的に教え込む必要がある。

即ち、ドイツの教育者フレ、ベル(1783〜1852)も、「子供は5才までにその」生涯に学ぶすべてを学び終える」といい、これは子供は生ま れてから5才くらいまでのあいだに、性格や情操、それに是非善悪の判断の基準、要するに倫理観の基本等、その人物のすべての基本が形成 されると思えるからである。
 従って、かつての中国のように8才で入学する子供達にこの「小学」を教えていたのでは最早手おくれということになる。
 然し、「修身」等という言葉も知らず、ルイビトンのバッグ欲しさや少しでも経済的にゆとりのある生活がしたいばっかりに子供を託児所に預け て夫婦共稼ぎをする現存の親達に子供の道徳教育を施すことはまず不可能に近い。
 従って私が思うには初産を迎える妊婦に医師や助産士が出産時の心得を教えると同時に国家の指示で強制的にこの「小学」の講義を 受講させ、目出度く子供を出産したあかつきにはその修了証書と母子手帳を同時に母親に交付するというのはどうだろう。
何故ならば親は仏様から授かった子どもを立派に育て上げる義務があるからだ。

私はこの文の最初に「かつては誰もがもっていた小学校1年生の頃の好奇心と感動と遊び心を呼びさます純粋で新鮮な心」と書いた、然し果 して今の子供達の何割にその心が残っているだろう。
 現在の子供達の心の荒びは、商業主義に目の眩んだ無責任な大人達によって毎日のように見せつけられる俗悪なテレビや漫画本、そして テレビゲ一ムやポルノ雑誌等によって、いやでも毒され続けているのだ。
 その責任はこの様な何でもありの社会を造りあげ、粛々(しゅくしゅく)(いやな言葉だ) として日本を駄目にしてくれた政治家達にあることは間違いない事実である。
 政治家達はBSEや鯉ヘルペス、又は鳥インフルエンザについては必死にその防止対策を考え何とか撲滅しようとするが、それらとは比較にならな い程危険な漫画本やポルノ雑誌等を法律によって禁止しようとはしない。

(かい) より始めよ」の喩えの如く、今から生まれてくる新しい命に正しい道徳教育を施すために 妊産婦に「小学」を教えようと提案する政治家は現れないものだろうか。
 どうかこの提案だけは「馬耳東風」と聞き流して頂きたくないと思うのが今の私の切実な願いである。
 遅れ馳せながら私も笑楽校の好調として図書館に通って「小学」の勉強をしなおしている処である。