アテネオリンピックに思う
(2004年10月号)

日本中を熱狂させたアテネ五輪は、8月29日その幕を閉じ、結果として日本チームは過去最多の37個のメダルを獲得した。
 曾てオリンピック選手を夢見たこともある私は、超一流選手が繰り広げる鳥肌の立つような美しい演技に魅せられて、つい夜中迄テレビにかじりつ き寝不足気味の日が続いた。
 然し、スポーツ中継でのアナウンサーの絶叫と、出場選手の気持を逆撫でするような無神経でワンパターンな質問に嫌気がさすと同時に、女子の新 体操の華麗な演技に対し、鵜の目鷹の目でその欠点を指摘し続ける、したり顔の解説者の態度に我慢出来ず、遂にテレビ観戦を断念してしまった。
 元来それらの採点基準なるものは、それぞれの競技団体が順位をつける便宜上、サーカス的な動きに重点をおいて勝手に定めたものにすぎず、演 技全体を通しての美しさとか優雅さにはあまり重点をおかない傾向がある。
 私の関係している馬場馬術競技にしても、一部自由演技(キュアー)を除いて個々の運動の総合観察点として、リズム・推進気勢・従順性・騎手 の姿勢の4項目はあっても、馬場馬術で一番大切な全経路を通して感じられる芸術性についての評価を採点上で取り上げることはない。
 その理由は芸術性に対する感じ方が、個々の審判員によって異なり、採点のための一定の基準を設けることが困難だからだ。

馬場馬術を一種の芸術であると信じている私は、かねがね優れた芸術作品を鑑賞し賛美し感激することはあっても、その芸術作品に順位をつ けるべきではなく、それは作者や騎手に対する最大の侮辱であると思っていた。
 従って、紙一重の演技を繰り広げている世界一流の選手が出場する芸術性の高い馬場馬術競技や新体操や冬季のフィギュアスケート等に対し、 選手達より遥かに感受性の低い審判員達が彼らの主観によって、もっともらしい理屈をつけて採点すること自体私には我慢が出来ないのだ。
 唯、競技会の運営上、どうしても順位をつけるというのなら、陸上や水泳競技のように審判員の主観の入る余地がなく又出場選手達がまったく同 じ条件で競い合うことの出来る運動のみに限る必要がある。
 然し、それすらも水着やスパイク等の性能の優劣はいかんともしがたい問題である。

更に、大国の圧力や強力なスポンサ、の圧力が勝負の世界に影を落とすようになった結果、ソルトレークシティのフィギュアスケートの採点 上の不手際や、ショートトラックでの微妙な判定で順位がくつがえされるという不名誉な前例があったというのに、今回も又体操での採点ミスがお こり、国際体操連盟がその誤りを認めたにも関らず順位はそのままという理屈に合わない結末となってしまった。
 この問題についてIOCは「人間は過ちを犯すものである、人為的なジャッジミスについてはIOCは間に入らない」と逃げている。
 掛け替えのない貴重な人生の大半を費やし、苦しい練習に耐えてメダルを目差してきた選手達は一体どこに救いを求めればいいのだ。
 公明正大な判断のもとに立派に大会を運営するための最高責任はIOCにはないと云うのか。ふざけるのも大概にしろといいたい。

又相変らず今回もドーピング問題が浮上した。今回は抜き打ち検査の領域を広げた為、違反者は前回の約2倍の24人になったという。
 然しこの抜き打ち検査にしても報道によれば4人に1人が検査を受けたに過ぎない。
 同じ条件をモットーとするIOCにしてはなんとも片手落ちの処置ではないか。
 ドーピングの蔓延する背景には、スポーツの商業主義化の中、名誉や生活と引き換えにドーピングに走らざるを得ない貧しく悲しい選手がいるか らで、これを根絶することは不可能である。
 近い将来ドーピング技術の発達により遺伝子操作によって人体改造が可能になるという、即ち「遺伝子ドーピング」の実現である。
 スポーツに栄誉と栄光のある限り、勝つ為の肉体改造に歯止めをかけることは出来ない。
 それならば、むしろアマチュアの祭典をプロの祭典にしてしまったように、「何でもあり!」とドーピングを総て許可した方が反って公平なよう な気もする。
 又、審判員の主観が優先するスポーツの不明朗なジャッジは、オリンピックが個人と個人、国と国との戦いとして、お互いに敵対意識を駆りたて、 各国こぞって獲得したメダルの色と数に目の色を変えている以上、ドーピング問題同様絶対になくなるものではない。
 最早、今日のオリンピックに真のスポーツマンシップを望むのは間違いである。

私は過去3回にわた「コア」の誌面を借りてオリンピックを平和の祭典にすべきだと主張してきた。世界の平和を図るためには産地限定の宗教 はむしろ逆効果であり、せめて芸術とスポーツによって世界の平和を実現させたいと願っている。
 国連とIOCは会期中古代五輪の伝統にならって「五輪停戦」を呼びかけたが何の具体的な方策のない提言等ナンセンスだ。
 オリンピック開催の主旨が世界平和の為の祭典であることを明確に位置づけ、その為の方策としてスポーツ大会を開催するのだということを鮮明 に打ち出さぬ限り、世界に戦火が絶えることはないだろう。
 テロ対策として7万人の軍・警察とパトリオットミサイルに見守られた大会を果たして平和の祭典と云えるだろうか、202ヶ国、10,800人が参加 したこのアテネ五輸「原点への回帰と人類賛歌」のテーマは遠のくばかりだ。

そして4年後のオリンピツクは北京で開催される。
 「堂々たる大国の風格と優れた成績で世界中に中国を理解させねばならない」。教育・スポーツ部門の担当者、陳至立・国務委員(副首相級)は今 年2月全国体育局長会議の席上北京五輪を国威発揚の場とする考えを明確にした。
 まさにヒットラーの再現である。
 私が近代五種競技の競技委員長を務めた94年広島のアジア大会でも中国は大量のドーピング違反者を出し、シドニーオリンピックでは開幕直前、 陸上選手27人が突然出場を取り止めたのもドーピング疑惑が浮上したからではないかと言われている。
 その中国が4年後のオリンピックを開くというのだ。

私はここで反中国感情をあおり立てるつもりは毛頭ないが、19世紀半ばのアヘン戦争以来の屈辱の歴史を今に忘れず、我が国に対する敵がい 心も先日の重慶でのサッカー戦を見る限り明らかである。
 スポーツの場を利用して反日感情をあおるのは何とも頂けない話だが現在の中国は文化大革命以降、孔子や孟子の中国ではないように思う。
 従って私は今後のオリンピックを何としても国際間のトラブルの元にだけはしないように今こそ獲得したメダルに有頂天になることなく今後のオ リンピックの運営をどうすれば「平和の祭典」とすることが出来るか、世界各国のオリンピック委員会はIOCとその企画運営に関し徹底的に議論し 研究する必要がある、そして4年後の北京オリンピックが世界の平和のために本当に貢献したと思えるような大会 になることを心より願うものである。