毛づくろい
(2004年6月号)

  「コ ア」に馬耳東風を掲載させて頂いてから7度目の入院、そして4度目の手術。
 棺桶に入るまで一度も身体にメスを入れたことのない人も大勢いるというのに結局私はこれで計7ヶ所もの手術をしたことになる。
 孔子は「身体髪膚之(シンタイハップコレ) を父母に受く、敢えて毀傷(キショウ) せざるは孝の始めなり」と言った。何とも親不孝なことだ。
 生来病弱だった私は60才の時、心臓の手術をしてから、どうも1〜2年もすると身体のどこかに不具合を生じ、仕方なく入院したり手術をする羽 目になった。
 但し、今回だけは約50年前の下半身の手術の再手術で、一刻を争うような病状ではなかったのだが、いつの日か、私にボケがきたり又は身体の自 由がきかなくなって寝たきりにならないとも限らない、そんな時、家族を含めた看護人に迷惑をかけたり醜態を晒したくないという思いが強かった 為、時間に余裕のあるゴールデン・ウィークに手術をしたというわけである。
 又、長年家で飼われていた犬が、去年の7月老衰で死ぬ2〜3時間前、(イザ) りながら所定の場所で大小便をすませ、又必死の思いで自分の寝床に辿り着き、きちんと毛づくろい迄して静かに死んでいった、煩悩のかたまりの ような人間と違い恐らく彼は死のメッセージを確実にうけとっていたに違いない。

その様子を目の当たりにして私もなんとかこの犬に少しでも(アヤカ) ろうと決心し、まず自分の毛づくろいの手始めとして心臓の停止するまで少しでも人様に迷惑をかけぬようにと健康で体力もあり回復力の早いうちに 手術をしただけのことだ。
 どだい病人の看護は辛気(シンキ) 臭く煩わしいものだ、妻も足腰の弱った私の父の世話をしてくれたし、娘も又嫁ぎ先の親の(シモ) の世話をよくしていたらしい、二人とも口には出さないが、あまり気色(キショク) の良いものではなかったに違いない。

かくして50年来の友人に紹介されて入院したその病院は、家からも近く建物も新しく清潔で病室も感じが良く、実は今この原稿もその病室で 書いているところだ。
 最近なにかというと病院の不手際を殊更に騒ぎ立てるが、そんなに病院や医師に不信感を(イダ) くのなら、いっその事、家で家族の人達に迷惑がられながら、(ロク) な治療も受けずに苦しみながら寿命より早目に死ねばいい。
 それがいやなら文句を言わず病院を全面的に信頼し、それで悪い結果が出たら、それは運命と(イサギヨ) く諦めるべきなのだ。
 現に私も7回も手術をしていると、明らかに医師の不手際だと思われる手術も確かにあったが、医師も別に悪気があってしたことではなし、こう して生きているのだからそれは不運と諦めて、そのかわり二度とその病院へはいかないことにしている。
 又、入院する度に感じることだが、病院の看護士さんには美人が多く、無意識で 六波羅蜜(ロクハラミツ) の一つ「布施波羅蜜(フセハラミツ) 」を地でゆく人もいて、汚い仕事もいやがらずに尽くしてくれる。
 又夜中の勤務等、殊に悲惨な最期を看取った後等はさぞ薄気味悪かろうと思うのだが、実際に私も真夜中の病室で幾度か不思議な経験をした ことがある。

それはさておき今回の手術は局部麻酔のはずなのに手術室に入ったまでは覚えがあったが、その後はまったく意識がなく、気がついたら自分 の病室のベッドに寝かされていた。
 思うに、どうやら病室を出る時睡眠薬を使われたのではなかろうか? これは今までになかった経験である。
 ベッドの上で気がついた私は、これで自分としてやるべきことを一つだけやりとげたという満足感を味わうことが出来た。これはひょっとして深沢七郎 の「楢山節考(ナラヤマブシコウ) 」の主人公、おりん婆さんの心境であったかも知れない。
 歳をとって働けなくなったおりん婆さんが一人前に食べていたのでは貧しい一家全員が飢え死にする為、息子に背負われて喜んで山に捨てられに 行く主人公の心境に少しでも迷惑をかけたくないという点で一歩近づいた気分だ。
 そして意識のもどった時、いつものことながら私の下半身はまるで蝋細工の人形のように手でさわるとブヨブヨでまったく感覚がなかった。

然し暫くするとだんだん!感覚がもどってきて傷の痛みも増してきたので少しでも痛みを紛らわそうとテレビをつけたら北朝鮮の列車爆発事 故のニュースをやっていた。
 子供とはいえ鉄製の粗末のベッドに二人ずつ寝かされて、というより転がされている子供達は治療を受けた形跡もなく、青い膏薬の様なものを顔 に貼られている者はまだ良いように思われた。
 今回の北朝鮮の事件は戦争でもテロでもないのにとんだ災難といわねばならないがアフガニスタンやイラクで傷を負った子供達の悲惨さはこんな ものではないに違いない。然しテレビからはその映像を見ることは出来ない。
 今年3月、日本ペンクラブでは「それでも私は戦争に反対する」という本を出版し、45人のペンクラブの会員がそれぞれの思いを綴り反戦を訴えた。
 その中の一人落合恵子さんはアメリカの13才の女の子の反戦スピーチをこう紹介している。「イラクには15才以下の子供が1200万人もいます、そ れらの子供達が飢えと絶え間のない死の恐怖にさらされながら大人になれずに次々と死んでゆく、こんなことをいつまでも許してはいけない」と。
 現に私も15才の時、B29からまるで花火のように空中で広がって落ちてくる焼夷弾におびえ、爆撃機の投下した爆弾に家のガラスは吹き飛ばされ、 戦火に追われて親子3人手をとり合って死を覚悟した経験がある。
 又新井満(アライマン) 氏は1998年2月、長野オリンピックの閉会式での萩本欽一氏の叫びを紹介している。「あの高い上空から地球を見た、ある宇宙飛行士が言 った。最初の1日か2日は、みんなが自分の国を指していた、3日目と4日目にはそれぞれの自分の大陸を指した。しかし5日目になると、私達の 念頭には、たった一つの地球しかなかった・・・・・」
 一呼吸おくと萩本さんは言った。「そうです。私達のふるさとは、地球なのです。このふるさとがいつまでも平和でありますように、祈りをこめ て、『故郷』を歌いましょう。
 「うさぎ追いしかの山 こぶな釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと」
 手術後の傷の痛みはあるが、最高の治療を受け清潔で気持ちのいいベッドの中でテレビを見ている私は、この幸福をしみじみと噛みしめながら、 明治の社会思想家、木下尚江(キノシタナオエ) が明治36年にいみじくも言った言葉「吾人は世界の同志と共に声を合はせて戦争の非義を叫び万国軍備の廃滅を唱ふる ものなり」を思い出していた。
 その言葉からちょうど百年の歳月が流れた。
 私達は今こそ声を大にして「万国軍備の廃滅」を叫ぶ必要がある。何故なら、この地球は私達全人類の共有の『 故郷(フルサト) 』なのだから。