「馬
耳東風」「馬耳東風」と書き続けて168回、いつの間にか14年の歳月が流れた。
平成2年5月号に第1回を書いてから5ヶ月目に「馬を犬にかえて」という題の記事を載せたら、和歌山の口の悪い坊様に「西村さんのエッセイも
これで終わりですね」とからかわれ、「何をこの野郎」と頑張ったお陰で何とか今日まで続けることが出来た。
そこで今回はその「馬耳東風」という言葉について、その由来らしきものを書いてみようと思う。
旺文社の「成語林」によると〔「東風」は春風〕(冬が去って暖かい風が吹けば人は喜ぶのに、馬の耳に春風が吹いても馬はいっこうに感じる気
配がないことから)他人の意見や批評などを全く心にとめないで聞き流すことのたとえ。→馬の耳に念仏。とあり、その出典は李白の詩によるもの
だと書いてある。
もともと私は自分の文章等読み流して頂きたいとの)思いが強かったから、この「馬耳東風」は我ながらぴったりの題名だと思っていた。
ところが、つい最近「午歳生まれは強運すぎる人」(友常貴仁著)という本を読んで
びっくり、馬耳東風の意味するところはその語源を辿るとまったく逆の意味であったらしいので、我が愛する馬に対して今迄大変に申し訳ないことを
していたと後悔した次第である。
その本によれば「馬耳東風」という格言自体は旺文社の成語林に述べられている如く唐の詩人李白の言葉に問違いはないが、その同意語の「馬
の耳に念仏」は日本発祥の諺で、何とそれは厩戸皇子
と云われた聖徳太子が言った「馬の耳に風」から変化したものだというのだ。
それでは何故こよなく馬を愛した聖徳太子が「馬の耳に風」という格言を残したかと云うと、桜の花がほころび始め春風が心地よく頬をなでる気持
ちのいい春の一日、太子は彼の御自慢の愛馬「黒駒」にまたがって、のんびりと春の野辺を散策していた時の事、ふと気がつくと黒駒は心地よい春
に耽るどころか大切な御主人様にもしものことがあってはと油断なく周囲に気を配りつつ歩を進めていたというのだ。
これを知った太子は、きっと馬は人間以上に多くの情報を収集しているに違いないと思い、情報の大切さを「馬の耳に風」という格言にして後世
に残したのだと大和古流21世当主の友常貴仁氏はその本の中で述べている。
従って、この「馬の耳に風」という格言は一般に言われている「馬耳東風」とはまさに正反対の意味をもつ格言ということが出来る。
そう言われてみると、馬術家の端くれを自認する私も、常々若い者達に「馬は人を乗せた以上常に騎手の一挙手一投足に気を配り、いかに騎手の
指示に忠実に従おうかということだけを考えて行動しているのだから、君達も常に馬のことだけを考えて馬に乗り、仮りに教官から『休め』の号令
がかかった場合、馬に休めの態勢をとらせても騎手は絶対に馬上で休んではいけない」と厳しく言っていたことを思い出した。
それでは何故その「馬の耳に風」がまつたく逆を意味する「馬耳東風」になっためかというと、この「馬の耳に風」が遣隋使か遣唐使によっ
て大陸に伝えられ、李白が馬は東風が吹いても春を感じようとはしないという処だけを聞きかじっ
て詩人の王十二から送られた「寒夜にひとりで酒
をついで飲みながら物思いにふける」という詩に対して
「答王十二寒夜独酌有懐」
「世人開此皆掉頭 有如東風射馬耳」
浮薄な当世では何とか出世しようと王侯貴族に媚びへつらうばかりで一向に詩人のことばを聞いても馬耳東風である、然しわれら詩人にとっては
官位等は無用なものだから大いに詩賦に生きようではないか、と王十二を励ましたというのだ。
その「馬耳東風」がいつの頃からか日本に逆輸入されて、その上「馬の耳に念仏」等という馬にとって、はなはだ不名誉な格言まで生まれてしま
ったらしい。
そうと気付いてみると、これから私も私の書いたものを読み流して頂く意味で何か別の題名を考えなければと思うのだが、今の処適当な題名も思
いつかず、取り敢えず14年問の実績に免じて今迄通り「馬耳東風」で続けさせて頂くことにする。
そして改めてこの14年間をふり返った時、私は芥川龍之介の「侏儒
の言葉」(昭和2年、彼の自殺から5ヶ月後に文芸春秋社から出版された著書)の中の或る文章を思い出す。
侏儒とは一寸法師の事だけれど、その中で彼は「侏儒の言葉は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない、唯わたしの思想の変化を時々窺
わせるのに過ぎぬものである。
一本の草より一すじの蔓草しかもその蔓草
は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない」と書いている。
烏滸がましいが私の「馬耳東風」もそのようなものであってくれたらと思っているのだが
これから先、果たして幾すじの蔓を伸ばすことが出来るか、そして少しでも生きの良い蔓を伸ばすことが
出来たら、こんな幸せなことはないと考えている。
今後とも何卒よろしくお願い致します
−以上−