「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず いまだ醒めず池塘春草の夢 階前の梧葉已に秋声」
あの時ああしておけばよかった、もっと勉強しておけばよかった、といって過ぎ去った時を惜しむのは世の常である。池の堤に春草が萌えたつよ
うな楽しい思い出が一杯つまった少年時代の夢からいつまでも醒めずにいると、いつの間にか階
(階段)の前の桐の葉に秋風が立つ季節になってしまう。僅かな時間も決して無駄に過ごしてはならない。
子供の頃、私の吃をなおそうとして詩吟を教えてくれた父に最初に習ったのがこの「偶成」である。
あれから60年、私の人生にもそろそろ秋風が立ってきた。この辺で何とかしないと悔いが残ることになりそうだ。
今から4年前、70才にな一た時出版した私にとっては三冊目の本「馬耳東風」の副題を「百面相人生」としたのも老後の理想の生き方として、
まず自分の得意なものを一つ見つけてその得意なものを基にしていろいろな趣味の環を広げていこうと思ったからだ。
即ち、私の元の顔を馬術と定め、笑った顔が馬術、泣いた顔が馬の彫刻、怒った顔が馬に関するエッセイということにして、かれこれ十数年、そ
のお陰で私はこれ迄結構人生を楽しんできたつもりである。
ところが60数年間続けた私の元の顔(素顔)である馬術が選手生活を続けるには少々年をとりすぎて息切れがひどく残念ながら今年で引退せざる
を得なくなった。
従ってレパートリーが二つだけの百面相では少々もの足りないけれど、これからは取り敢えずより真剣に彫刻と毎月書かせて頂いているエッセイに
専念することにしよう。
唯、そうしているうちに又何か別の百面相が現れないとも限らないし、有難いことに毎月書かせて頂くエッセイは私にとっての又とない生涯学習
になっているような気がして、このレパートリーはなかなかに捨て難いものがある。
というのは、学習というものは唯単に頭に入力することだと一般には思われているけれど、学習は入力するだけでは駄目で、入力したら必ず
出力しないと本当の学習にはならないということだ。
書いたり人に話したりすることで新しい情報が生まれ、その情報を公開することでネットワークが広がり、書いたものに対するいろいろな人の意見を
聞くことで新しい知識を入力することが出来る。又自分でもエッセイを書くために積極的に本を読んだりして入力しようと努力するようになるものだ。
その上自分の心の中で起きた漢然とした変化を、何とか文章にしようと書いているうちに、自分は今何を思い何を人に伝えたいのかと云うことがだ
んだんとはっきりしてきて、まさに頭の体操には打って付けで惚
け防止にも大いに役立っているようだ。
又馬の彫刻は60年間さわり続けた馬という美しい生き物の本当の美しい姿を此の世の中に残した1いという私の当初の理想は今も変わっておらず、
これからもずっと続けているうちに、下手は下手なりに何とか格好がつくだろうと思っている。
宮沢賢治の「此の道」で彼は「一生や二生でこの仕事は出来ません、今生で無理だったかも知れないが、今度また生まれかわったら自分は又
此の道を歩むだろう、この次が無理なら又この次の生で此の道を歩もう、今自分の歩いている此の道は、人間として永遠に正しい願いの中にある」
と書いている。
私の彫刻とエッセイという此の道は、そんなにだいそれたものではないけれど、何とか悔いの残らぬように今の此の道を歩いてみよう、何故なら
ば私のこの道は二つとも、うまくすると生涯学習にもつながるような気がするからだ。
そして出来れば此の道を歩き続けて、やがて生涯現役、臨終定年、大往生といけば馬運馬運歳(万歳)というものだ。
唯、この往生という言葉を辞書でひいてみると、「極楽浄土に生まれること」と書いてある。
ところが浄土真宗の開祖、親鷲によると、往生とは単に極楽に生まれるというだけの、そんな単純なものではないらしい、まして私のように
好き勝手なことをして、あとは自己満足しながらポックリと死ぬことではないというのだ。
即ち、真の往生は此の世に於いてより良き人生を歩むところから既に始まっているものであって、人は生きてきたようにしか死ねないものなのだか
ら、より良き生だけがより良き死(往生)をもたらしてくれるものだというのだ。
そうなると私も、より良き死を得る為に勝手に自已満足等してはおれず、何とかこれからの人生を考えなおさねばならない。
然し、より良き生とはどうすればいいのか、浄土真宗によれば阿弥陀佛の教えに随ってその教えと共に歩む人生ということらしいけれど、今の私
には少々納得がいきかねる。
何となく窮屈そうな仏様のその道以外に、より良く生きる遠はないものか、どだい宗教というものは人間が人間として生きる為の心の拠り所とし
ては必要な気がするが、百面相のレパートリーにはどう考えてもならないように思われる。
なんとか健康に注意して家族の厄介者にもならず、彫刻とエッセイだけで仏様はより良き人生を生きたことにしてくれないものかと不安がつのる。
然し、あまり深刻にそんなことを考えていると大往生はおろか小往生さえ覚束無
いような気がするけれど、今の処この二つのレパートリーの外に良い考えも浮かんでこない以上、取り敢えず素顔のない二面相でお茶を濁すしかない
と観念した。
どう'やら私の人生、大往生には程遠いものになりそうだ。
−以上−