追   憶
(2004年2月号)

慌ただしかった正月三箇日もすぎ、何となくほっとした1月の半ば、めずらしく雲一つなく晴れわたった空の下、2階のバルコニーに藤椅子を 持ち出して冬の日差しを全身に浴びながら静かに目を閉じて束の間の平和を楽しんでいた。
 庭の片隅に植えられた白梅の甘い匂いが心地よく私の鼻をくすぐる。
 もうすぐ春がやってくる。ややこしい世界情勢とは無関係に野や山には花が咲き明るい天地が甦ってくる。
 私達はいつもながらこの神秘の営みの見事さに驚嘆の声をあげる。
 然し、黒々とした沃土(よくど) に根ざして心ゆくまで伸びる事の自由を与えられた恵まれた草花の外に、日の当たらない都会の片隅に芽生えた小さな草花達が、与の与え られた環境の中で黙々と小さな生命を燃やし、か細い茎を力一杯伸ばして、それでもしっかりと淡い花を咲かせている姿を見ると胸 のつまる思いがする。

新聞紙上を毎日の如く賑わす凶悪犯罪の記事を見るにつけ、私達はつい彼らは育った環境があまりにも悪すぎたのだ、もっと良い環境に生まれ ていたらよかったのに、恐らく家が貧しくて充分に勉強も出来なかったに違いない、総ては社会が親が学校が悪いのだと同情して他人にその責め をなすりつけてはいないだろうか。
 然し、草花はひとたびその地に種をまかれれば、(みずか) らの力では決してその地を離れることが出来ない、それでも健気な草花達は誰に文句を云うでもなく精一杯生きようと努力する。
 それに引きかえ私達は自らの自覚と努力次第でどんなに悪い環境からでも立ち上がり抜け出せる心をこの体の中に持っている。
 人間として私達に真の喜びを与えてくれるもの、それは地位でも財産でもなく銘々個人個人の心の持ち方一つであり、それと同時に人をして 迷いの道に至らしめるのも又心なのだ。

私の育ての母は岡山の裕福な家庭に育ち、望まれて神戸のある病院の院長婦人になったが、心の幸福(しあわせ) を求めて離婚し、幼い男の子を一人残して妻に先き立たれた一介の銀行マンである私の父と再婚した。
 二人の間にはやがて腹違いの妹が生まれ、私達一家4人は幸福な毎日を送っていた。
 ところが、その妹が7才になった昭和16年の夏、江の島の海水浴場で食べたものにあたって、僅か1日でこの世を去ってしまった、 病名は疫痢だった。
 その時私達兄妹を海水浴につれていってくれたのは、不運な事に私の生みの母の母親、即ち私の祖母であったというあまりにも皮肉な (めぐ)り合わせとなってしまった。
 母にしてみれば私の祖母が2人をつれて行ったのだから、どちらかが死なねばならぬ運命であったのなら、むしろ自分の本当の娘の代りに 血の繋がっていない私が妹の代りになってくれたらと思ったこともあっただろうに、当時12才だった私にはその様な母親の複雑な心の内を窺い 知るよしもなかった。
 然し、その悲しみを乗り越えて勝気な母は他人から継母(ままはは) と云われたくない意地も手伝ってか私を実の息子のように可愛がり、兄妹2人分の愛情を私1人にそそいでくれた。
 妹の死後、戦争は益々激しさを増し、食糧事情も悪化し買い出しに追われる毎日が続いた昭和18年、父は結核にかかり 病床の身となってしまった。
 働き手を失い夜毎の空襲に脅え、病人と育ち盛りの子供をかかえた母の苦労は並たいていではなかったと思う。

敗戦後、幸いにも父は病気がなおり、以前の銀行に復帰したが、そのかわり母は戦中戦後の疲れからか父の結核に感染し長い療養生 活の末、57才で帰らぬ人となった。
 然し母は病床にあっても常に私の事を気にかけて、死の前日にも当時結婚して別居していた私の処に細々(こまごま) とした手紙を代筆させ食糧品等と一緒に使いの者に持たせてよこした。

真の心の喜びを求めて自ら選んだ父との結婚は、戦争という大変に不幸な出来事と重なったとはいえ、果たして幸福だったのだろうか。
 唯、私だけはこの母のお陰で幸福な青春時代を送らせて頂くことが出来たが、母の一生はビルの谷間に風に吹かれて飛んできた一粒の種の ように報われることのない悲しい運命であったようにも思える。
 そして母の兄はその「思い出の記」の中で「思えば真に多情多感の生涯を遍みし妹遂に逝く、病床を見舞いし時、やさしい言葉の一つ二つ遺し 置かんと思いしも、それより寧う妹の好きで共に唄った地唄『黒髪(くろかみ) 』と『立山(たてやま)』でも聞かせた方が功徳ならんと思いを込めてこれを唄う。余命い くばくもなき妹、眼を閉じてじっと聞き入りたり。
   “良き夫にみまもられつつ妹は逝く
        あわれ来世に幸多かれと”」
 恐らく20数社のオーナー社長である兄の目には、妹の一生は悲惨なものと映ったのかも知れない。
 然し、少なくとも父と私は母が命をかけて私達につくしてくれた純粋な愛に対して当然のこととして母に真の心の平和と喜びを与えることが出来 たと一思、っている。

気がつくと冬のやわらかな日差しもいつしか(かげ) り、風邪をひいてはいけないと早々に家に入ったが、白梅の甘い香りと母親のような温かくやさしい日差しのお陰で暫しの間懐かしい 育ての母の面影をしみじみと思い出す事が出来た。
 そして何故か松山善三の「名もなく、貧しく、美しく」の名場面が頭に浮かんだ。

−以上−