夢を追って
(2002年9月号)

今から三十数年前、栃木県那須の「なべかけ牧場」の場長、沖崎エイさん(故人)の生産馬メジロムサシ(昭和46年の天皇賞馬)が 新潟競馬場のコーナーで骨折したことがあった。
 その時、沖崎さんは「三才の若馬に、あのコーナーは無理だ、せめて1,000米の直線コースがあったらなあ!然しそれは夢というも のか!!」と一部の競馬関係者につぶやいたという。
 然し、その夢は確実に歴代の新潟競馬場の場長達に受け継がれ、遂に去年7月、中央競馬新潟競馬場に我が国初の1,000米の直線 コースが誕生した。
 その長年の夢を実現させた関係者の一人に社団法人・中央競馬新潟馬主協会会長のD氏がいるが、その協会が発行している会報の 名称が「夢を追って」である。
 私も、この1,000米の直線コースの完成を記念して馬主協会より2頭の馬がゴールを駆け抜けているところの銅像の製作を依頼され たが、その銅像の銘板にも大きく「夢を追って」と書かれている。
 世界同時不況の現在、一般庶民のささやかな夢を一枚の馬券に託すのも悪くはないが、「夢を追って」という名前の機関誌を出し続 けた新潟馬主協会には、過去にこのような理由(わけ) があり、これでやっと三十数年来の沖崎さんの夢もかなったというわけだ。

「夢を追って」、何というロマン溢れる心地良い響きを持った言葉だろう。
 私達の子供の頃の夢は、教育勅語に云う如く、學を修め、智能を啓発し、徳器を成就しとまず自分を磨き、戦時中ということもあって、 将来は軍人になって大将か又は大臣になることだった。
 然し、今は軍隊もなく、まして堕落しきった政治家や大臣が将来の夢だなどという子供達は少ないと思うが、それにしても最近の男の子 は将来野球かサッカ一選手になりたいというのはまだいい方で、まったく夢のない子供が大半で、女の子も看護婦であったり又は花屋さん かケーキ屋さんの店員になることらしい。
 どうしてそのような情けない夢になってしまったのか、恐らく夢を与えるべき立場にいる親や学校の先生達自身に夢がない為、子供達 に人間としての本当の夢を与えることが出来ずにいるに違いない。

札幌のクラーク博士は、彼の生徒達に決してそんな大人になれとは言わなかったはずである。
 私もかつてはいろいろな夢を抱いたことがあったが、72才の馬の彫刻家としての現在の夢は、馬術の本場ヨーロッパで個展を開くこと であり、出来れば世界の馬術の二大総本山ともいえるスペイン乗馬学校(ウイーンにある世界最古の乗馬学校、記録によれば1572年には 既に宮廷内に屋根つきの馬場があった)やソミュール馬術学校(ソミュールはフランス騎兵学校の中心地として16世紀末の創立)の校庭 に馬の銅像を設置することだ。
 その第一歩として、幸運にも来年3〜4月に国際馬術連盟の役員達の(はから) いで、ベルギーとオランダの国際馬術大会(一日の入場者数15,000〜20,000人)の開催中に、その会場内の貴賓室を借りて個展を開くこと になった。
 従って来年の3月から半年ぐらいは主にイタリアのピェトラサンタという世界の彫刻家の集まっている町で仕事をすることに なるだろう。
 心臓に欠陥のある語学力の乏しい、しかも73才の老人にとって、この決断力はかなりの冒険にちがいないのだが、然し馬の彫刻家と しての最後の夢の実現の為に何としてもこの目的だけは成功させようと思っている。
 彫刻を始めて12年、それなりに彫刻家の友人も出来交際も広がったが、その人達の大半はミケランジェロの、そして世界の彫刻家の 故郷(ふるさと)ともいえるイタリアのピエトラサンタに行ったことはなく、 その名前すら知らない人が大半だった。大学の彫刻科の卒業記念にイタリアに行く彫刻家の卵は多いけれど、ピエトラサンタ迄足を 伸ばす者は皆無に近い。

つい先頃の毎日新聞に、科学環境部のA氏が「純粋培養」と題して「わが意を得たり」と思えるコラムを載せていた。
 その内容を要約すると、今回のWカップで海外に飛び出していった日本のサッカー選手達の活躍を見るにつけ、その逞しさの秘訣は 世界の一流選手の間でもまれた「他流試合」の経験が、一味違う日本人選手を育てあげたのだと容易に想像がつく。
 然し、他流試合が重要なのは何もサッカーに限ったことではない。
 科学技術立国をめざす日本の政府は今、どうやって世界レベルの科学者を育てるかに腐心している。
 その中で問題視されているのは、学生から教授になるまで同じ大学で過ごす「純粋培養」の弊害だという。
 似た背景を持った仲間内で研究を続けていては、独創的な発想は決して生まれてこない。若い研究者達は全員一たんは海外に出して 異なる環境のもとで刺激を受け、お互いに切蹉琢磨しあう必要がある。
 横並びを重んじ、互いに規制しあっている日本では突出した才能を伸ばすことは困難であるというのだ。

この意見はそのまま今の日本の彫刻界にも当てはめることが出来る。
 狭い日本の彫刻界の中だけで満足している彫刻家の先生に師事している学生達は、留学等思いもよらず、自分の作品に先生の手を入れ てもらうことで、あわよくば日展等に入選して肩書きをつけることに汲汲としているのが現状のようだ。
 又、先生達も、かつて自分達がそうされてきたように、教え子は総て将来のライバル(商売敵)であるとの認識のもとに、若い彫刻家 に対して手のうちはあかさず、まして自分達が経験したこともない世界に飛び出させる機会等与えられる 道理(わけ)もない。
 然し、このように偉そうなことを書いている私も、実は今回のドイツ、イタリアの旅では全く疲れ果ててしまった。何故なら、私の乏 しい英語はドイツやイタリアの地方都市では通用せず、その上フランクフルトやローマの広い飛行場では危うく迷子になりかけて、 もう二度と日本には帰れないのではないかと思ったことがあった。
 自慢じゃないが、昭和5年生まれの私は、戦争の為、学校で英語を習ったことは唯の一時間もなく、敗戦直後の中学校では先生から 外国人に会ったら、唯「アイ・キャン・ノット・スピーク・イングリッシュ」とだけ云って逃げるようにと教えられた。
 そうは云っても兎に角私は、ヨーロッパで個展を開くという夢の実現の為に、来年の3月までにドイツ語とイタリア語の特訓をしよう と思っている。
 そして私はやはり宮本武蔵ではないけれど、「我が事に於いて後悔せず」と73才の青春を燃焼しようと決心したのだ。