修 身 (しゅうしん)
(2002年7月号)

5月15日の早朝、私は祖父の五十年忌の法要の為、久し振りに東京駅より和歌山行きの汽車に乗った。
 生みの母の存在を大学生になるまで知らなかった私は、今から35年前、唯一人の肉親として生母の母(祖母)の納骨の為、生まれて初めて 和歌山県の母方の先祖が眠る菩提所、養徳寺の山門を潜った。
 それ以来、先祖の荒れた墓地を整理したり、五輪塔を建てたりと、お寺さんとの交際がはじまったのだが、今回は住職の要望もあって 墓参を機に檀家の人達に1時間程講演をさせて頂くことになった。
 生後7ヶ月の私を残して世を去った母や、養徳寺に眠っている先祖の冥福を祈る為にも、私はその講演の内容を私達が今現在生かされ ているのは御先祖様のお陰だということに主眼をおいて話そうと思った。

 “死んでしまった人に対して、私達は何の力もないが、然し死んだ人の真心が、生きている我々に 働きかける力は絶大なものがある”
                     −−武者小路実篤−−
 今迄にも「南無の会」(既成の宗教や宗派にとらわれることなく、生きることの意味を学ぴ、あらゆるものと共に生きるよろこびを 求めていこうという会、宗教団体ではない)の「辻説法」の経験もあるので、今回も和歌山の善男善女の前で御先祖様に関する聞きかじり の仏教の話しをすることにした。
 本堂での五十年忌の法要を終えて住職と二人、卒塔婆と供花を持って小雨の降る墓地に入った私は、何時ものことながらそれぞれの お墓に今朝供えられたばかりのような美しい花が供えられているのを見て、なんとも云えない清清 (すがすが)しい空気と、心の安らぎを覚えた。

政治、経済、社会、そのどれ一つをとってみても失望することばかりの今の日本、そろそろ日本に見切りをつけようかと思っていた 私は、ゆっくりと小雨の中に消えてゆくお線香の煙をみつめているうちに、日本もまんざら捨てたものではないという思いと、何故か 犯罪をおかしても反省心のない可愛想な今の日本の子供達のことを考えていた。
 今の子供達が、テレビや漫画本に毒され続け、その結果知らなくてもいいことを知り、本当に知らなければいけないことを教えられて いないという大変に不幸な事実に、我々大人達はどう対処すればいいのだろうか。
 今の小中学生に最も必要なものは道徳教育であり宗教教育のはずであるというのが、かねてからの私の持論なのだ。
 極端なことを言えば、算数や国語を知らなくても人間として立派に通用するけれど、道徳や宗教を知らない生き物は人間とは云えない ような気がする。それは渋谷や原宿あたりに(たむろ)している子供 達と、アフガン難民の子供達の目の輝きや姿を思い浮かべて頂ければ一目瞭然である。

今の子供達に人間はどう生きるべきかということを教えるのが道徳教育なのだけれど、その道徳を教えるためには、どうしてもまず 宗教を教え込む必要があるように思われる。
 それなのに、今の公立学校では宗教教育はしてはいけないことになっているから、当然子供達は宗教も道徳も教わらないまま大人に なってしまい、いまや、その大人達が学校の先生になっているのだから始末が悪い。
 その結果、日本人の心はますます貧しくなっていくに違いない。

私達が学んだ国民学校(今の小学校)では、「修身」の時間というのがあって、主に校長先生から教えられた記憶がある。
 然し、私達が教えられた戦前の「修身」は、悲しいことに人から縛られている道徳、即ち天皇に忠義をつくせ等という他律的道徳の 押し売り教育であった。
 従って、戦後マッカーサーによって、その他律的修身教育は望ましくないという理由から禁止されたが、愚かにも当時の文部省は (いま)わしい他律的道徳のかわりに自律的な道徳、つまり、人間はど うやって生きるべきか、人間は何をなすべきで何をなすべきでないかという真の道徳教育を教えることを忘れたばかりか、宗教教育 そのものまで禁止してしまった。
 私は自分の名前の字を人に説明する時、修身の修に一本棒の修一ですと云うのだが、最近では修身の修といっても理解できない人が多く、 今や修身という熟語は死語になってしまったような気がする。

今から十数年前、家の引越しの折、納屋の古い箪笥の裏から塵にまみれた風呂敷包みが一つ出てきた。その風呂敷包みの中には生み の母の写真や初めて目にする母の手紙の外に私の名前の(いわ) れを書いた父の書き付けが入っていたが、それによると「修一は精神的には修養の結果、刻苦勉励によりはじめて最後の勝利者となる」 と書かれていた。
 「艱難汝を玉にす」ではないけれど、「お前の将来は刻苦勉励以外にないのだから一生懸命に修身を積むように」という父の息子に 対する強い(いまし)めと期待が込められているような気がしてならない。
 今時そんな無責任な名前をつける親がいるだろうかと思ったが、兎に角、還暦を迎える年になってから自分の名前の由来を知らされても 後の祭りだ。  然し息子に精神的修業の大切さを求めた父の心の愛情と勇気に改めて頭の下がる思いがした。

世界的名著「武士道」の著者、新渡戸稲造は、ある時、著名なベルギーの法学者、ラブレー氏と散策中、ラブレーから「あなたがた の学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とたずねられ、「ありません」と返事をすると、ラブレーは驚きのあまり 突然歩みをとめて、「宗教がないとは、いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。と書 いている。
 今の文部科学省の役人や学校の先生達は子供達の将来をどう考えているのか、土曜日を休校にする前に、土曜日一日を道徳の時間に あてようと提案する人間が一人ぐらいいてもよさそうなものだが。
 然し、よく考えてみると、今の文科省の役人の中に道徳の何たるかを知っている者がいないような気がして悔然たる思いにかられて しまった。
 この様な日本にしてしまった責任は一体どこにあるのか、まさに天に唾する思いでこの文章を書いているのだが、この難問解決の鍵は、 今の私利私欲の権化の如き政治家や文科省の小役人共に絶対的な力を(ふる) うことの出来る人物の出現以外には実現不可能だと思われる。
 5月末現在、何故か円高が進んでいることでもあり、やはり日本脱出が最も賢明な策なのかも知れない。