笑楽一念生友の会
(2002年5月号)

冒頭から私事で恐縮だが、家外(かがい) (一般には家内(かない) というところを、我が家では不本意ながら敢えて家外と呼んでいる)の友人に荒井さんという才色兼備の女性がいる。
 彼女は「自已の脳細胞を活性化させることによって、嘆き悲しみの人生を楽しみの人生に変える方法」即ちどうすれば自分の脳力を 開発することによって楽しい人生を送ることが出来るかという本を出版し、その脳力開発普及のため精力的に日本全国を飛びまわっている 魅力的な女性なのだ。
 その彼女が或る時大変にユニュークな集まりの話をもってきて、ぜひ私にその会で話をするようにと言ってきた。
 そういわれても馬のことしか話す種のない私だから勘弁してくれと一旦は断ったものの、今年は午年だから馬の話しで結構、と食い 下がられ、元来美人に弱い私のこと、つい鼻の下を長くして引き受けてしまった。

その会の名前が「笑楽一念生友の会」(通称笑楽校)といって、1997年から年4回の講座を開催し、毎回200〜250人の受講生を集め ているという。
 又、その笑楽校の世話役というか役員の名称がふるっていて、校長(好調)、教頭(響頭)、教育委員(今日育委員)、PTA会長 (PTA快調)、職員会議(食飲会議)等と遊び心充分で毎回新宿文化センター小ホールを満員にして立ち見席まで出るらしい。
 その笑楽校設立の主旨はというと、「私達は好奇心と遊び心いっばいの小学一年生の心にもどり、イキイキとした楽しみの人世を 創造すると共に、ボランティア活動『途上国への小学校を寄贈等』を通して少しでも専門分野を越えた社会貢献をし たいと考えて開校した」という。

 又その笑楽一念生の目標は、
1. 誰もがもっていたい「小学生の心」即ち関心と感動と遊び心にかえって、新鮮な心で人生を大いに楽しもう。
2. クラスメイトは人生の達人、謙虚に学び合い、良い子になろう。
3. 心の時代の先駆け、21世紀文化の発信基地をめざそう。
4. ボランティア活動で広い社会性を発揮しよう(途上国への援助)。
5. 皆んなが主役、主演の手作りの会にしよう。
6. 他の学校(勉強会や交縁会)とも交流し、皆んな仲良く益々大きく輪を拡げよう。

  笑楽校は全員が一念生で、同級生であると同時に各々が長年蓄積した専門分野での客員講師として、お互いに学び合う最高の師でも ある。自薦、他薦で色々な役割を担当していこう。というものらしい。

その話しを聞きながら、私はフッと以前読んだ司馬遼太郎の「風塵抄」の「高貴なる子供達」の一説を思い出していた。
 司馬遼太郎はいう、
 「最近の子供達は世間に早く出すぎるというか、俗悪なテレビや漫画本等によって毒され、変に老成化してしまい、自分のなかの コドモの部分が干からびてしまっている。
 人間はいくつになっても、精神のなかのコドモを胎蔵していなければならない。
 そうでないと、精神のなかになんの楽しみもうまれてこない。
 例えば、いい音楽を聴いて感動するのは自分のなかのオトナの部分ではなく、コドモの部分なのである。
 人は終生、その精神のなかにコドモを持ちつづけなければならない、ただし、よほど大切にそれを育てないと、年配になるにつれて 消滅してしまうきらいがある。
 天才的な教育者は、だれでも20代で偉大な創造をし、以後、とまってしまうといわれている。数学にかぎらず、学問においてなみは ずれた仮説を立てる能力も、その人のコドモの部分である。
 職業として芸術家や学者、あるいは創造にかかわる人々は、生涯コドモとしての部分がその作品を創っていることを意識して、常に その部分の水分が蒸発せぬよう心がける必要がある。
 万人にとって感動のある人生を送るためには、決して自分のなかのコドモを蒸発させてはならない。
 ついでに、ここでいうコドモとは、成人仲間でみられる子供っぽさとか幼児性とかいうことではない。いくつになっても、他人に甘え っぱなしの成人がいる。それは決してコドモが豊富ということではなく、オトナとしての義務や節度、あるいはオトナとして最低限必要 ななにごとからか逃避したいための擬似コドモであるにすぎない。本来のコドモはりりしいものである。
 日本の成人に多い悪ふざけや秩序感のないはめはずしも、オトナであることのつらさを(かわ) すときの擬態である場合が多い。擬似コドモはいやらしい」。
と結んでいる。

最近のテレビタレントと称する(やから) の大半は彼のいう、いやらしい擬似コドモの部類に属し、悪ふざけや秩序感のない、はめはずしだけを売り物にしていて、彼らは寄って たかってブラウン管の中から判断力の乏しい子供達の心を虫ばみつづけている。
 そのような時代だからこそ、せめて年4回の笑楽校の会に出席して比の世の苦しみ、迷い、そして煩悩を忘れ、他人との比較において 自己を判断することをやめて、仏教でいう悟りの世界、涅槃の世界、そして他人との比較の上で物を判断しない絶対の世界に遊ぼう じゃないかということなのだろう。

何はともあれ、百聞は一見に() かずと先日その会を聴きに行ったところ、講師は多士済済で面白く、又世話役の人達も何とも天真爛漫な 人達ばかりで、つい会の帰りにその人達と一杯やったのが運のっき、まあ年に4回だけピカピカの一年生にかえるのも悪くはないと思い、 「私のような者でもお役に立てば」と言ってしまった。
 然し、ほろ酔い気分で乗った帰りの電車の中で、何気なく前に座っている子供を見ていて最近の子供達は果して私達がある種の郷愁を もって懐しむような純粋なコドモの心をすでに失っているのではなかろうか。
 小学一年生はおろか、今の子供達はひょっとして母親の胎教によって生まれながらにして司馬遼太郎のいう「高貴な子供達」ではなく なっているのかも知れない。何とも淋しいかぎりだが、だからこそ私達は積極的に他の学校(勉強会や交縁会)とも交流をもち、皆んな 仲良くその輪を拡げていくところに笑楽校の存在価値があるのかも知れないと思いかえして家に帰った。