松樹千年翠
(2002年4月号)

1990年5月に不思議な御縁で「馬耳東風」というエッセイを書かせて頂いてから、今回で144回、何と12年もの月日が流れたことになる。
その間私は、老後に備えて小さな会社をつくり、手術を3回(この雑誌が出版される頃には4回目の手術で入院の予定)、引越2回、 そして現在馬術選手として世界ランキング82位(シニアに非ず)にランクされている。
 又、休まずに文章を書かせて頂いたお陰で日本ペンクラブの会員に推挙され、10年前に始めた彫刻も一応日本彫刻会会員の肩書き まで頂いた。
 今年は私の干支の午年だから、エッセイを書き始めた12年前もやはり還暦の午年で、エッセイも彫刻も、まさに六十の手習いを地で いったことになる。
 最初にエッセイを書いた時には2〜3ヶ月も続けばいいと思い、主題を「馬耳東風」としたが、なんと今日まで続けることができたのは、 一重に日本設備工業新聞社の社長はじめ社員の方々の御厚意があったればこそだが、今になって考えれば中学生の頃、私が本の虫であった ことも又見すごすことが出来ない要因の様な気がする。

昭和20年8月の終戦の日迄、毎夜の如く執拗に繰り返されるアメリカの空爆の為、灯火管制といって夜は満足に電燈もつけられず、 まして、ゆっくりと本を読む等ということは許されるはずもなく、そんな暗い日々が何ヶ月も続いた。
 そして終戦の日の夜、いろいろな思いが交錯したが中学生だった私が一番嬉しかったことは、明るい電燈の下で親子三人ゆっくりと 夕餉を楽しみ、今夜からは空爆の心配もなく夜はぐっすりと眠れると思ったことだった。
 そして現在、アフガニスタンの子供たちが本に飢え、向学心に燃えているように私も又無性に本が読みたかったことを覚えている。

当時、家の近くに間ロー間半程の小さな貸本屋があって、小柄な腰の曲がった老婆が一人店番をしていた。
 あらゆる物資が極端に不足していた終戦時のこと、新刊書等出るはずもなく、本と活字に飢えていた私は、その貸本屋に週に何回も 通って本を借りてきては昼も夜も夢中になって読んだものだった。
 そのせいか今でも古本屋(当時のような貸本専門屋は今はないと思う)があると、つい古本の紙とインクの匂いがたまらなく懐しく なって店の中にさそいこまれてしまう。
 貸本屋から借りてきた本は、両親が結核だったこともあって、必ず庭の芝生の上にひろげて天日干しをしてからでなければ読ませて もらえず、返すときにも天日干しをしてから返しにいった。
 夜遅くまで電灯をつけて本を読んでいると、母に叱られるので、掻巻き(着物のように袖のついた綿入れの布団)の中にスタンドを 引き込んで熱いのを我慢して掻巻きの袖から外の空気を入れながら夜が耽るまで読んでいた懐かしい思い出がある。

私が子供の頃は、どこの小学校にも二宮尊徳(金次郎)が薪を背負って本を読んでいる銅像が立っていて、最近でも時々金次郎気取 りで道路を歩きながら一心に本を読んでいる大人に出くわすが、たいがいは残念ながらマンガ本であることが多い。
 金次郎の読んでいたのは、中国の経書「大学」で二宮家には今もすり切れた「大学」が残っているという。
 然し、金次郎が常に「大学」を持っていたように、今の子供たちは肌身離さず携帯電話を持って歩きながら携帯電話をかけている。  昨年10月末の「第47回学校読書調査」によると、小学生8%、中学生19%、高校生75%が自分用の携帯電話を持ち、今は持っていないが、 いずれ持ちたいと応えたものは、小学生71%、中学生75%、高校生58%(?)だという。
 その結果、携帯電話を持ったために月一冊の本も読まない中高生が増えているというから、まさに世も末である。
 携帯電話を持つことで、友達とすぐに連絡がとれる、新しい友達が出来るということで学生としての本分以外にいろいろと便利な点も あるだろうが、読書には便利さ以外のものがあり、本を通して想像力を養い、自分の世界を広げ夢を広げるという利点がある。

中国の言葉に、「読書三余」というのがある。
 それは忙しくて読書をする時間の足りない人でも必ず三つの余暇があるということで、冬「一年の余り」・夜「一日の余り」・そして 雨「時の余り」だという。
 又、「読書三到」というのは、書物を読んで理解するには、まず目でよくみて「眼到」次に声を出して読む「口到」、そして心を集中 して読む「心到」の必要があるというのだ。
 然し、今の日本ではその三余や三到の前に、まず学校や家庭で、くだらないテレビを消し、下劣なマンガ本や携帯電話を屑箱に捨てて、 良い本を読む習慣をつけさせることだ。
 そして学生に限らず読書は幾つになっても心の浄化の為に大いに役に立つものだと信じている。

私の好きな言葉に「松樹千年の翠」がある。人は常にみずみずしく目を輝かせながら生きていかなければならない。
 然し、千年もの間、悠々として天に聳え美しく枝をひろげている松の翠も、実にその一葉一葉は年ごとの若葉だということを忘れては ならない。
 つまり変るものの中に変らぬものが悠々として流れているところが何とも素晴しく、その年ごとの若葉の何割かは間違いなく読書に よって培われ、そこに生涯学習が芽生えるように思う。
 与謝野鉄幹が歌う「友を選ばば書を読みて」という知的友情は携帯電話やパソコンからは決して生まれるものではない。
 古いと笑われるかもしれないが、私の読書癖は六代目菊五郎の「まだたりぬおどりおどってあの世まで」の世界にあやかりたいと思う。
 そして、これからもお許しいただければ私なりに年毎の若葉のつもりで書いている「馬耳東風」の寄稿をいつまでも続けてみたいと 考えている。