馬を崋山の(みなみ)に帰す
(2002年2月号)

2001年の競馬は、あたかも昨年の世相を象徴するかの如く、第46回有馬記念(GI)は史上最高の486.5倍の大荒れによってその幕を とじた。
 しかし今年は私の干支(えと)午年(うまどし) でもあり、又何となく威勢のよさそうな感じがするので、今回は私の本職である馬について書こうと思う。

明治11年(1878)、パリで開催された万国博覧会に我が国は、時の内務卿・大久保利通の命により、宮内省厩舎に繋養されていた「岩 手」と「田代」という二頭の日本産馬を出陣することにした。
 我が国の南部地方は古来より中国の冀北(きほく) (良馬の名産地)に勝るとも劣らぬ名馬の産地としての誇りをもっており、その南部地方の駿馬中の駿馬である岩手と田代を「かの いけずき*unicode漢字*)・するすみ(磨墨) の如き名馬ここにあり」と胸を張って出陣させたというわけだ。
 果せるかな、その評判は予想を遥かに上まわり、ヨーロッパの人々の注目を集めたばかりか、買い手が殺到した為、巳むを得ず博覧会 終了後、フランス政府に寄贈することとなった。
 当然、我が国としては日本産馬の優秀性を全世界に証明することができたと鼻高々の報告がなされた。
 然し、残念なことに実情はまったく異り、購入申込みの真の理由は、「この動物は馬に非ずして猛獣なり、ヨーロッパに於いては今より 約150年前までは、この種の動物を遺存せしが、今日ではまったくその影もみず、この二頭は真に動物学上有益な研究資料なり」 ということで、まったく改良されていない世界の珍種として注目を集めたというわけである。
 結局この二頭は、パリの動物園に於いてその生涯を終えることとなった。
 又、明治33年(1900)の北清事変では英・米・露・独・仏・墺・伊の列国軍から「日本軍は馬のような格好をした猛獣に乗っている」 と酷評されている。
 この様なお粗末な馬匹状態にあった日本は日清・日露の戦争に於いて、辛うじて勝利を収めたものの、馬匹改良は国家的事業である との明治天皇の勅諚(ちょくじょう) (天皇の命令=残念なことに現在ではこのような超党派的政策を断行できる機関はなくなってしまった)により馬政局の設立と馬政計画の 策定が行われたのである。
 以来、我が国の馬匹は改良に改良を重ね、その後、活兵器としての役目を立派に果すこととなったが、如何せん、近代化・機械化の波に 押し流されて、現在では競馬場や一部乗馬クラブや学校の馬術部でしかその姿を見ることが出来なくなってしまった。

それでは、その世界の珍種といわれた岩手・田代とは一体どのような馬であったのかというと、この二頭はともに明治4年(1871)生まれで 体高(馬の肩の高さ)四尺五寸(136cm)、現在のサラブレッドの平均的体高160〜170cmと比較すると約30cmも低かったことになる。
 因みに私達が現在、世界選手権やオリンピックで騎乗しているヨーロッパ産の馬は170〜185cmであるのに、明治天皇の御料馬(愛馬) として有名な金華山号(現在剥製として神宮外苑の聖徳記念絵画館に保管)でさえ145.4cmしかなかった。
 又、昭和28年(1953)鎌倉・材木座でおびただしい人骨とともに馬の骨も多数見つかったが、これは元弘3年(1333)新田義貞軍が戦いの 果て、討ち死した人馬の骨であることが判明し、その馬の骨から推定して当時の馬の体高は127〜140cmであった。
 体重も現在私達が乗っているヨーロッパ産馬が550〜650キロに対し、約280キロという、まことに可愛らしいものであった。
 記録によれば、有名な木曾義仲軍と鎌倉軍との宇治川の合戦の「いけずき・するすみ」はともに体高145cmであり、これは当時として は可成りの大型馬ということができる。
 又、源義経の「青海波」は141cm、鵯越(ひよどりごえ) えの畠山重忠の「秩父鹿毛」は136cmだったというから、下り坂の不得手な馬の前肢を肩にかついで急斜面を降りたという話しも (うなず)けようというものだ。
 ブラウン管の標的に標準を合わせてボタンを押すだけで多数の人間を殺傷する近代戦と異り、大柄な鎧武者がポニーより小振 りな足の短い土産駒に跨り、恐らく騎馬武者の足は地面すれすれだったはずだが、「やあ、やあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って 目にも見よ」と叫んでいる様を想像すると、何とも滑稽で微笑ましい気がする。

何年か前、NHKの「歴史への招待」という番組の制作上、体高130cmの馬に45キロ(鎧、武具、和鞍の重さに匹敵)の砂袋をくくりつけ、 騎馬武者には大学の馬術部員が扮して実験を行ったところ、最初はギャロップ(駈歩)だった馬は、すぐにトロット(速歩)となり・10分 後には気息奄々(きそくえんえん) と足もともあやしく、辛うじて前に進むだけの有り様だったという。
 又その実験の結果では分速、最高で150mだったが、現在のサラブレッドでは騎手の重量が若干軽いとはいえ、1,000〜1,200mの時の 平均ハロン(200m)が11.2秒だから、それを分速に換算すると、1,070mも走ることになる。
 そして、ダービーの距離2,400mになると、ジャパンカップで驚異的な速さで走り抜けた豪州馬ホーリックスは時速60.7km、平均の ハロンタイムが11.8秒であった。それだからこそ戦国時代に騎馬武者の横について走る足軽や雑兵も案外楽についてゆけたわけだ。

私が初めて馬に乗ったのは今から64年前の昭和13年(1938)だから、その僅か38年前の北清事変の時の馬でさえ、日本の馬は現代の ポニーより小振りだったわけだ。
 思えば私もずい分と長い間馬に乗っていたことになるが、それでも小学校の頃のことが、つい昨日のことの様に思い出される。
 「光陰矢の如し」とはよく云ったものだとつくづく思う。
 又それと同じ様な言葉で「隙行く駒の足早み」とか「() の隙を過ぎざるが如し」と云う言葉があるが、この「駟」とは四頭立ての馬車の事で、月日の過ぎるのは四頭立ての馬車の走り過ぎる のを壁の隙問から見ているようなものだと云うことだ。
 明治時代には二頭立てや三頭立ての馬車が盛んに使われていたようで、横浜居留地の外国人が明治2年(1869)に初めて「乗り合い馬車」 の会社を経営したが、たちまち大変な人気となり後には日本人も営業にのり出すようになった。
 更に政府直轄の郵便馬車会社が設立され、郵便物を乗せて市街を疾走した為、かなりの危険が伴ない、実際に人身事故が多発したので 明治5年、軽犯罪法を公布して馬に乗ってみだりに走ったり馬車を疾走させることを取り締っているが、たかが分速150m程度の馬に はねられるとは、当時の人たちは相当おっとりしていたに違いない。
 そこで馬車の往来の激しい道路脇の家の人達は郵便馬車のラッパの音が聞こえてくると、急いで家の中に逃げ込んで壁の隙間から 馬車の通りすぎるのを恐る恐る見ていたというわけだ。
 然し、それもたかだか100年前の話である。

最近の世界貿易センタービルの崩壊やアフガニスタンの空爆の映像を見るにつけ、かつて中国の武王(ぶおう) (中国史上最高の名君とうたわれた)が(いん)紂王(ちゅうおう)を滅ぼした時につぶやいた言葉
  “馬を華山の(みなみ)に帰し
      牛を桃林の野に放つ”
を思い出す。
 戦いに使った馬を華山(陜西省(せんせいしょう) にある山の名前)の南に帰し、荷を引かせていた牛を桃林(河南省の地名)の野原に放ち、ふたたび用いないことにしよう。
 即ち「もう戦争はこりごりだ」という意味である。
 今年こそ世界中どこにも戦争や紛争のない平和な地球にしたいものだ。
     〈参考〉一、武市銀次郎著「富国強馬」
         一、日本中央競馬会発行「馬の科学」