(コッ)  ()
(2001年10月号)

小学生の頃から毎日のように馬に乗った報いで競輸選手がよくかかるという一種の職業病の尿道狭窄症という持病を抱えていたとこ ろへ、老人病ともいえる前立腺肥大が重なって、汚い話だが尿の出が極端に悪くなってしまった。
 暇をみて手術をしなければと考えていた矢先、年3回の成人病検診で前立腺癌の疑いまであるというので、丁度良い機会だからと 今年の4月、馬術競技のシーズンオフに三つまとめて手術をしてもらった。
 ところが何しろ場所が場所だけに、最低3ヵ月は絶対に馬に乗ってはいけないと医者からは厳重に止められ、その上家族の者達も 四六時中監視の目を光らせていて厩にさえ行く事が出来なくなった。
 やきもきしているうちに70キログラムそこそこだった体重は見るまに腹がせり出して、80キログラムにまでなって、甥の結婚式で 久し振りに着たタキシードのズボンはもとより、上着の前のボタンまで、かからなくなってしまった。

最低でも月のうち半分は馬に乗って、全身に汗をかいて体重を一定に保っていたものが、急に運動を止めたのだから無理からぬ話し。  なんとかして体重を減らして一日も早く馬に乗らなければと手術後の1ヵ月程は気ばかり焦っていたが、 二月(フタツキ)三月(ミツキ)と経つうちに、 もう馬にも乗れる体になったというのに、どうも肝心の気持の方が今一つ乗ってこない。
 なんとなく体が重く(実際に10キログラム増)千葉県の佐倉まで往復4時問の車の運転を考えると億劫になってしまう。
 まして、馬に乗って疲れ切った体で彫刻の粘土と格闘するのには体力はもとより相当の勇気と決断が必要となってくる。
 私の体は、喉から尻まで略一列に4回の手術によって約百針近く縫い合わされていて、その縫った糸を全部 (ホド)くとすると、 秋刀魚(サンマ)の 干物の開きの様になってしまう。
 そんな体で馬に乗りながら彫刻をやり、下手な文章を書き、その上この不景気に会社の経営まで見るのは土台無理な話しだと人は云う けれど、所詮、楽しみというものは物に執着するところからおこるのだから、楽しむ為にいろいろな苦しみが伴うのは当たり前の話。
 然し、このままずるずると馬に乗るのを止めてしまったら、もう二度と馬には乗ることが出来なくなるのは目に見えている。

そこでやむなく一計を案じ、9月初旬に開催される馬術競技大会のグランプリ種目にエントリーすることにした。
 そうして自分自身を縛ってしまえば、あまり無様(ブザマ) な成績もとれないし、第一、試合に出場するからには、あくまでも優勝が目的なの だから無理をしてでも練習せざるを得なくなるという寸法だ。
 馬術の試合というものは、恐らく他のスポーツでも同じだと思うが、5%の選手が95%の確立で優勝をさらってゆくものなのだ。
 いくら出場選手が多くても、恐れることはない、本当に勝負をしなければならないのは、ほんの一握りの選手なのだから。
 然し、その一握りの選手の中で優勝するとなると又話しは別になる。

柳生新陰流の開祖、柳生但馬守の子息、柳生宗矩は、いみじくも「我人に勝つ道を知らず、我に勝つ道を知りたり」といった。
 所謂、「克己」である。
 従って、5%の優勝候補選手の中で優勝カップを手にする為には、どうしても「我に勝つ道」を発見する以外に道はない。
 更に、柳生宗矩から6〜70年後、葉隠れの元を築いたとされる佐賀藩士・山本常朝は、「勝つといふことは味方に勝つ事也、味方に 勝つといふは我に勝つ事也、我に勝つといふは、気を以って体に勝つ事也」と喝破した。
 「気を以って体に勝つ事」、これこそが優勝につながる唯一の道だというのだ。
 だからこそ、かつてオリンピックのマラソンで入賞した女性選手が、インタビューに対して胸を張って「自分を誉めてやりたい」 ということが出来たのだ。
 「試合に何としても勝ちたい、何としても相手を倒したい」、その為に気を以って自分自身の体に勝つ、これは確かにスポーツの世界 では「克己」という言葉の一つの解釈には違いない。

然し、本当の意味での「克己」となると、どうもそれだけでは不充分な様な気がする。
 かつて新渡戸稲造は、その著「修養」の中でこう云っている。
 「克己」とは確かに己に克つということだけれど、己といっても己のどこに克つのかが問題だというのだ。
 「心をば心の仇と心得て、心のなきを心とは知れ」とは一遍上人の有名な歌だけれど、この一首のうちの「心」にしても、悪い意味の 心ばかりとは限らず、良い意味の心もあるように、己にしてもいろいろな己があるというのだ。
 然し、大体において己に克つというのは、「悪い己に克つ」、「己の情欲を制する」という意味に使われるけれど、自分の悪い心に 克つという解釈を更に一歩進めて、単に己の悪性に克つことに止めず、善事の為に己の身を犠牲に供するというところまでその解釈を 昇華させる必要があるというのが、明治大正時代の有名な教育家、新渡戸稲造博士の結論のようだ。
 孔子やキリストの教えは、「汝、何々をするなかれ」と説くが、人生の最終目的、「修養」の最高の目的は、己に克つとは己を捨てる ことでなければならないらしい。
 ゲーテも「己を殺すことは、これ生命のもとなり」といっている。
 確かにキリストは十字架にかけられてなお、自分の信念を貫き通し、自分の身を殺して己に克つと同時に、世界に克つことが 出来たのだ。

そう考えてみれば、たしかに己を捨てることが真の「克己」なのだろうが、私のような凡人は、まずは思いついたところから着手し て、あと2〜3年は老体に鞭うちつつ、自から眼の前に人参をぶらさげて、その人参を必死で追ってみようと思う。
 そして取り敢えず馬術大会に出場して、せっかく60年も続けたこの楽しみをもう少し続けてみたいと考えている。
 自分の身を殺して己に克つのは、卑怯なようだけれど、もう何年か後に先送りすることにして。

−丁度、此の原稿を書き終えたところへ、国際馬術連盟より2001年度の世界ランキング82位との連絡が入った。来年は私の 干支(エト)午年(ウマ) で72才になる。2002年はなんとしても世界ランキング72位を目標に頑張りたいと思った−。