論 語
(2001年9月号)

かつて我が国が教育のもととして遵守していたものに「知育・徳育・美育」がある。
 その三本柱の一つであった美育が、軍国主義のあおりを受けて「体育」となり、現在では「知育・徳育・体育」が 一般的で、「美育」等という言葉があったことすら、まったく忘れ去られてしまった。
 更に最近では電車の中で見かける中高校生を含めた子供達の中に、その知育・徳育の片鱗すら持ち合わせていないと 思われる顔付きの子供達が多く、かつての教育の基本とされていた知育・徳育・美育は失われ、子供達に残ったものは 「体育」のみというさびしさで、教育の荒廃も窮まれりの感が深い。

然し、死語となった美育を懐しみつつ、美の鑑賞と創作能力を養い、そこに人生の喜びと遊びを見出そうという ユニークな集まりがあるのをつい最近発見して嬉しくなった。
 その会は、10年程前から毎月1回定期的に都内のホテル等で開催され、会員には大学教授や芸術家は勿論、本邦初の 沿線民俗学研究家や、健康生きがいづくりアドバイザーとか、はては中高年性教育研究会相談役等という人までいて、 実に多士済済、毎月いろいろな講師を呼んで夕食をともにした後、約1時間程話しを聞いてから2次会に席を移し、 気の合った面々と酒をのみながら夜の更ける迄の長広舌、私にとっては月に一度の待ち遠しい息抜きの場となっている。
 たまたま1ヶ月前の例会に、私の友人がビジターとして一人の中国人を連れてきた。
 WWOという国際会議の中華人民共和国代表理事という触れ込みで孔健氏を紹介されたが、なんとその人の名刺には 「孔子直系第七十五代子孫」と印刷されていた。
 孔子の生誕には、いろいろと異説があるが、大体今から2500年前だから、一代当たり約33年という計算が成り立つ。
 孔子というより論語や儒教に興味のある私は、片言の日本語を話す孔健氏を相手に早速論語の話しを持ち出した。
 然し、悲しいことに現代の中国では、やはり文化大革命以降、論語や孔子の話しはご法度で、極く一部の大学で論語の 講義が行われているにすぎないとのことだった。
 どうやら今の中国では孔子や老子の様な聖人はまったく相手にされないらしい。

我が国では、4世紀の初め頃、百済(くだら)から渡来した 王仁(わに)が論語を伝えたとされていて、聖徳太子の十七条の憲法の第一条にも 「和を以って貴しとなす」という論語の精神が受け継がれていて、その論語によって代表される儒教の思想は、徳川幕府以来、 昭和の終戦まで日本の教育思想の根本となっていたのだ。

私が小学校5年の夏だったと思うが、或る日突然父から応接間に呼びつけられ、これから毎日曜日の午前中、論語を教えることにす ると申し渡された。
 今と違い、世の中の怖いものの代名詞が、「地震・雷・火事・親父(おやじ)」 の時代、その親父の命令とあっては絶対服従以外になく、結局その論語の特訓は約1年程続けられた。
 平成の今日、論語の講義を毎週息子にする父親等どこを探してもまずいないと思うが、1年間も一言の文句も云わず神妙に父の講義を 聞く子供も又いないと思う。
 然し、それが当時としては何の抵抗もなしに受け入れられていて、現在のように「切れる」等という言葉は此の世に存在しなかった 良き時代でもあったのだ。
 そして60年が経った今、懐かしく父の姿を思い出すと同時に、今は亡き父の真の愛情に対し、深く深く頭を下げざるを得ない。
 現在私は3人の孫と同居しているが、その孫達に論語とまではいかなくても、せめて日曜日の午前中に学校で教えなくなった 知育・徳育・美育に関する語しでもしようかと努力するのだが、いつもテレビや遊びに忙しく、逃げられてしまう。
 孔子や老子は知らなくても仲間はずれにはならないが、劣悪なテレビ漫画の筋書きを知らないと学校で皆から相手にされないという。
 近頃の学校では立派な社会人として知っておかねばならぬことは教えないで、知らなくてもいいことや知ってはいけないことを教える 傾向がある。
 もっとも常に生徒の鼻息ばかりうかがい、生徒の点数を稼いでおかないと先生も失業させられる世の中だから何をかいわんやである。

子曰(シイワ)く、
 学びて時に、(コレ)を習う、
 亦 (ヨロコ)ばしからずや。

 (トモ)、遠方より来たる有り、
 亦 楽しからずや。

 人、知らずして、(モト)らず
 亦 君子ならずや。」

孔子が言いました。
先生や書物について学んだことを、くりかえしておさらいしたりして、学んだことが、一つ一つ自分の身になっていくのは非常に 喜ばしいことです。
 志を同じくする友達が、遠方から尋ねてくれるのは、自分の実力が人に知られたからであり、人々から信頼されたり、尊敬されるのは、 なかなか楽しいものです。
 その反面、人から自分の学問や徳行を認められなくても、君子なら少しも不平に思ったりはしないものです。

 この三節は、学習上の三段階を述べた個々の教えで、江戸時代を代表する学者の伊藤仁斉(いとうじんさい)が、「門人が、この三節を本の最初においた のは、この三節が一部の小論語の原点と見たからだ」と言っている。
 とりわけ「びて時に之をう」は「学習」という成語の出典であり、学習院の出所でもある。
 又聞くところによれば、江戸時代、熊本や豊橋や栃木県の本田風石川県の大聖寺、茨城県の笠間に設けられた藩の学校が、いづれも 「時習館」と云ったのもみなこの節からとったものだという。

孔子の75代目と会ったことで、私も久し振りに父のことや論語のことを思い出したが、徳川三百年の間、武士の教養の大半はこの論 語と孟子によって培やれたといっても過言ではない。
 私が小学生の頃、先生が用事で授業が出来ない時、「自習時間」というのがあった。
 然し、今の小学校では「自習」と云わず「自学」と云わせている。学びて時に之を習うではなく、「自分で勝手に学んだらいいだろう」 ということらしい。それでは先生はまったくいらない事になる。
 「自習時間」を「自学時間」に変えた先生達の自覚の無さ、生徒達から解雇を宣告されてもしかたがあるまい。
 政治も経済も改革改革とうるさいことだが、教育改革こそ真剣に取り組むべき課題なのだ。
 立派な人格を備えた政治家や国民をつくることが国家百年の計のはずである。選挙に当選したからといって達磨に目を入れて万歳万歳 と自分の就職祝いをする政治家達に日本の国は救えない。
 大関や横綱になった時の二十歳そこそこの関取の方が遥かにその地位の重さを感じているように思えるのは私だけの誤解だろうか。
失敗しても責任も問われず減給も解雇もされない政治家と乞食は3日やったらやめられないとはよく云ったものだ。
 今の政治家に安岡正篤の如き人材の出現を切に望みたいのだが、どうやらそれは果敢なき夢のような気がする。