癖ある馬に乗りあり
(2001年8月号)

ある馬に乗りあり」
 いろいろな癖のある馬でも、乗り手の扱い方次第で結構人の役に立つ馬に仕込むことができる。
 「癖亡き馬は行かず」
 癖のあるぐらいの気性が激しい馬でなければ、遠く険しい道を長時間歩いてはくれない。
 換言すると、一癖あるぐらいの者のほうが何かの折にその力を発揮するものだ、おとなしいばかりでは、いざという時、何の役にも 立たないということか。

大学を出てから、ちょうど半世紀、その間私は自分の馬を乗馬クラブに預けて乗馬を楽しんできた。
 数えてみると、家の引越や会社の都合等で、この50年の間に4カ所の乗馬クラブに私の馬を預けたことになる。
 そして面白いことに、その4カ所の乗馬クラブともクラブ所有の馬で最もおとなしく、しかも故障なしに1日3〜4回の素人の騎乗に 耐える馬、云いかえるとクラブで最も稼ぎのいい馬は、いろいろな大学の馬術部から二束三文で仕入れた馬が非常に多いということだ。
 大学の馬術部というところは、競走馬を持っていた先輩達がレースに使えなくなった馬を大学に寄付するケースが多く、その馬を 大学生達が乗馬にしようと再調教(?)を試みるのだが、良い馬程敏感で気性も激しく、又動きも大きい為、大学生や監督・コーチ達 (素人集団)の技量では手におえず、いろいろといじくった挙句、立ち上がったり蹴ったりの悪癖がついてしまい、結局只同然 で乗馬クラブに引きとってもらうというわけだ。
 そこへいくと流石に一応名の通った乗馬クラブには、その悪癖をなおすぐらいの技量のある調教師がいて、元来素材としては良い馬 なのだから、初心者の会員にも安心して乗せられるように再調教しなおして大いに稼いでいるのだ。

又、前記2つの諺の外にも
 「癖ある馬に能あり」というのもあって、これ(など)も癖の悪い馬でも、そのことのためにすぐに見捨てないで、根気よく調教の順序を 間違えず、一つ一つ馬に納得させながら再調教をしてゆけば、隠された素晴しい能力を引き出すことができるのだから、愛情をもって その能力を見出して大いに活用すべきだということだ。
 だいたい悪癖というものは、一部血統的なものもあるけれど、少なくとも生れた時から癖の悪い馬等まずいないものだ。  要するに、心ない乗り手や飼い主によって、自衛上ついてしまった悲しい癖ということが出来る。

それはさておき、「癖ある馬に能あり」という諺は、考えようによってはいろいろな解釈が出来て実に面白い。
 即ち読みようによれば、「癖のある馬には必らず能がある」ともとれるし、又反対に、「癖のない馬は能なしが多い」ともとることが 出来る。
 更に、「癖のある馬には能のある馬もいる」ともとることが出来るかと思うと、「癖があっても能なしの馬もいる」ともいいたくなる。
もっと皮肉ってみると、「癖があっても能がある馬もいる」とはいいたくなかったのではないかという様な気もする。
 要するに、この諺は、癖のある馬には能がなく、能ある馬には癖がないということはあり得ないと主張したかったに違いない。
 そして最も肝心なことは、この諺は決して馬のことを言っているのではなく、ズバリ、人間のことを馬に例えているのだ。
 どこかの国の総理大臣なら、さしずめ「変人に能あり」といいたいところだろうが、先きのような考え方をすれば、「変人は必らず 能がある」なのか、「変人の中にも能のある者もいる」なのか。
 恐らく彼にしてみれば「変人で能がなく、能のある変人はいないということはあり得ない」といいたいところなのだろう。
 なんだか書いているうちに自分で云っていることがわからなくなってきそうだが、先きの大学馬術部の馬ではないが、その馬が名馬で あればある程、個性が強く頭の回転も早く、又体も柔軟で動きが大きく気性も激しいものなのだ。

私の気持ちを率直に言うと、その様な悍馬でなければ、いくらお金をあげるから乗ってくれといわれても、決して乗る気にはならない。
 といっても、私の言う悍馬とはシェークスピアの「ジャジャ馬ならし」のジャジャ馬とはまったくそのニュアンスを異にするもので、 馬の表現法の一つで「悍威(かんい)」という岩波書店発行の広辞苑にも載っていない威厳のなかにも精悍さを漂わす様な馬、という意味の 悍馬なのである。
 蛇足ながら、明治時代の政治家や歌舞伎役者の中にはこの悍威ある顔の人が多かったが今では見ることが出来なくなった。

又、一般によく知られている諺に、「馬には乗ってみよ、人には添ってみよ」がある。
 馬の良い悪いは実際に乗ってみないとわからないし、人の性格も又親しくつきあったり、結婚して一緒に暮してみなければわからない ということで、物事は外見で判断せずに、実際に接触してみて、いろいろな面から真実を見通すべきだという教えである。
 然し、折角のこの教えも大学馬術部の様に当方の経験なり技術なりが未熟で、つまり能なしだと、接触すればする程真実の姿がわから なくなるばかりか、折角の相手の良い素材をも台なしにしてしまうばかりか、共倒れになりかねないということを肝に銘ずる必要がある。
 今の総理大臣も、又外務大臣にしても本当に乗りこなす人がいたら或いは相当の名馬になる可能性はあると思いたいのだが、私の長い 人生経験からしても人間はなかなか周囲の雑音が多くて馬の様にはいかないと思うし、今の日本にそんな名伯楽がいるとも思えず、 そのうちにどこかの乗馬クラブにたたき売られる様なハメにならねばいいがと心配でならない。