六十の手習い
(2001年6月号)

六十の手習いという諺がある。
 この諺は恐らく人生五十年、七十古来稀なりといわれた時代の言葉に違いない。
 60才の春、以前から悪かった心臓弁膜症が更に悪化して馬に乗ることも会社の仕事を続けることも出来なくなって、仕方なく退屈 しのぎのつもりで始めた彫刻が、毎年「日彫展」に出品しつづけたお陰で、この4月になんとか日本彫刻会の会員に推挙された。
 人間は自分の余技について語る時、何故か必らず自慢話しの様に聞こえて、少々面映い気がするが、私の場合まさしく諺通り 「六十の手習い」が10年目にしてやっと一応の格好がついたというものだ。

然し、よく考えてみると、私の彫刻の土台は、約半世紀にわたって飽きもせず馬に乗り続け、馬の肌にさわりつづけた結果、馬の彫 刻なら何とか人並みに創れそうな気がして、病気になったのを契機に馬の像を創ってみようと思いついたまでのことだ。
 従って、いまだに旦那芸の域を抜け出せずにいるけれど、老後の時間つぶしというか些細な楽しみが一つ増えたのは確かである。

唯、今になって私の70年の人生をふり返った時、気の遠くなるような時間と、そしてお金の浪費があったことを思うと、とりかえしの つかない馬鹿なことをしたという一抹の後悔の念を拭い去ることは出来ない。
 これまでの70年間に払った犠牲に比べれば今回の会員推挙が何と(ささ) やかな御褒美であったことか。
 そしてこの事実を一般的に当てはめて、つらつら考えてみるに、人間が或る目的の為に努力するとして、その努力によって費す ところと、得るところを比べた時、一体どっちが多いかというと、費やすことの方が遥かに多いような気がする。
 然し、一見まったく無駄なように見えるその努力も、無駄と感じて行わなかったとしたら、結局私は自分自身の掛け替えのない貴重な 人生を、何も得るところなく終ってしまうことになるだろう。
 私に彫刻の才能があった等ということは決して思えないが、然し唯人間の才能というものは、その人自身も気づかずに眠っている場合 が多いように思う。
 そして非常に残念なことに眠ったままでその一生を終えてしまう人の何と多いことか。
 ところが、何かまったくの偶然のキッカケでそれが目覚されて、その結果結構楽しそうに老後を送っている人を私は何人も知っている。
 その反面偶然のキッカケのつかめぬまま、自分から「私にはそんな才能がない」と思いこんで、私がいくら勧めても最初の第一歩を 踏み出そうとしない人も数多く知っている。

自分からそんなことは不可能だと決めつける前に、何故「駄目もと」で挑戦してみようという気にならないのか、不可能とは一体誰 が決めたのか、よくよく考えてみる必要がある様に思う。

「何事もおづるな(おそれるな)おづるな、おづれば仕損(しそこな) ふぞ、おづるは平生の事、場へ(いで) ては、おづるなおづるな、溝をば、 づんと飛べ、危しと思へば、はまるぞ」
                            沢庵
 これと同じ様な諺をフランス馬術の格言に見ることが出来る。
 「大障碍を飛越しようと思えば、まず自分の魂を障碍のむこうにほうり出せ、その魂につれて馬の体は美しい軌道を描いて障碍を越えて いくだろう。そして騎手の体はその馬の動きを妨げることなくついていくだけでいい」と。
 私も若い頃にはいつもこの格言を心に刻んで障碍を飛んだものだ。

人生五十年、七十古来稀といわれた時代の「六十の手習い」、最近では70は決して稀ではない。
 人生八十年が普通になった時代、むしろ百才を古稀と云うべきだろう。そして六十の手習いは八十の手習いと訂正すべきなのだ。
 諺にいう六十の手習いとは、幾つになっても勉強には遅すぎることはないという意味なのだ。
 私が会員になった社団法人日本彫刻会(設立明治40年)の創始者の一人、平櫛田中は90才になってから30年分の彫刻の材料を買い こんだという。
 絶対がない芸術の世界、唯々無限の可能性というか未知の世界に対する飽くなき挑戦、平櫛田中の90才の青春がそこにある。

この月刊誌が発行される5月末、恐らく私は病院のベッドの上にいるだろう。
 2001年度の日本馬術強化選手の一員として70年間動き続けて摩耗し身体の部品の一部交換と、オイル交換をして3年後の車検 (オリンピック予選会)を無事パスしてやろうという魂胆があるからだ。
 馬場馬術の創始者、ジェームズ・フィリス氏の口癖
 (En avant,en avant,et toujours en avant!)
 「前進、前進、常に前進!」