大 道 無 門
(2001年5月号)

風薫る五月。
 恐らく此の季節、いろいろな会社で新入社員達が希望に胸をふくらませながら第二の人生を歩きはじめていることだろう。
 今から60年前、私も念願かなって慶應普通部(中学校)に入学することが出来た。
 一人息子が自分の母校の慶應に入ることが出来て、よほど嬉しかったとみえ、父は親しい人や親戚を何人か呼んでお祝いをしてくれた。
 その席に、わざわざ岡山から駆けつけてくれた伯母と当時慶應大学在学中の彼女の長勇で私の最も尊敬する松田基さん(故人)がいた。

賑やか食事も終りに近づいた頃、父は当日来て頂いた方々に何か一言息子の門出に対して御忠言等お書き頂ければと兼ねて用意の色 紙をとり出した。
 こわるるままに、まず伯母が
   「親と子に凱歌あがれり春の風」
と書いてくれた。
 続いて基さんは即座に
   「此処()げば 大道無門 俺が春」
と詠んだ。
 「大道無門」とは宗の無門慧開が古来からの公案四十八則を選び評釋した「無門関」という書の序文にある有名な一句、 「大道無門 千差路有り」よりとった言葉だ。
 私より10才年上の基さんは当時大学の3年生、二十才(はたち)そこそこの若者が、母親の「春の風」につづいて「此処過げば 大道無門 俺が春」 と詠んだその心憎さ、唯々美事というか敬服の外はない。
 慶應の中学校に入学するということは、普通に勉強していれば大学も卒業出来るということで、「大道無門 俺が春」と詠んだわけだが、 先月号で私は日本人の(たしな)みとして和歌や書道の重要性についてふれた。然しこれら日本古来の奥ゆかしい文化を一般教養として身につけ たいと思う若者は今の世の中一体どれほどいるだろうか。
 文化は一片の標語ではない、それは多くの人間が生活をとおして長い年月を重ねていくうちに石に苔が生すように何とはなしに作られた ものだといった人がいる。その貴重な文化を戦後我々日本人はあまりにもあっさりと捨て去ってしまった。

栴檀は双葉より芳しというが、その後基さんは事業家であった父のあとをついで、両備グループ23社の総帥として岡山県下の交通事 業の発展に努めるかたわら、文化人としても実に多岐にわたって文化活動を展開し、輝かしい業踏を残し、2年前多くの人々に惜しまれ つつ此の世を去った。享年七十七才だった。
 彼は彼の母によく似た絵をかく岡山県が生んだ漂泊の抒情画家、竹下夢二を深く愛し、夢二が12才まで過ごした茅葺家を買い取り、 当時のまま保存したり、夢二自身の設計による東京府下松沢村松原(現世田谷区松原)に建てたアトリエを復元し、更に岡山市を流れる 旭川河畔に夢二生誕百年を記念して夢二郷土美術館を建て、夢二の作品を数多く収集、展示している。

馬耳東風も今回で133回、エッセイが自由な形式で書かれた個性的色彩の濃い散文で私的経験を主観的に書くものだとする一ならば、 前おきが少々長くなったが今回は吾が愛する今は亡き松田基と夢二の生き方をダブラせながら、その共通点にふれてみようと思う。
 「善心は美を愛する心より出ず」とは福沢諭吉の言葉だが、生涯美しいものを愛しつづけた基さんは、その著「リーデイングカンパニー に育てる」や岡山文庫「夢二郷土美術館」の中で彼独特の夢二論を展開している。

夢二の女性遍歴は、24才の時出戻りで美貌の「たまき」との結婚にはじまり、3人の子供までなしながら2年後に離婚するが、その 後も二人の関係はつづき32才の時、かねて相愛の女子美術の画学生「彦乃」と結ばれる。然しその熱烈な恋愛も彦乃の死によって終わり を告げる。
 更に彦乃の殻後、藤島武二のモデル「お葉」と同棲し名作「黒船屋」が生まれることになるのだが、基さんはその著書の中で「夢二は モデルを使いながら、いつもモデルを決して描こうとはしなかった。彼の美人画のマスター・イメージは、やさしき母、髪美しき姉、 たまき、彦乃、そしてお葉さんを合わせたた(たお)かな日本女性の、更にいうなれば、さだめ悲しく、はかなき女の「さが」であったやも しれぬ。それを業にも似て彼は描きつづけた。
 このように彼の女性遍歴は彼のロマンの生涯を華やかに彩るが、彼は決していうところのドンファンではない。彼は歌にいう
   「なつかしき娘とばかり思いしを
    いつか哀しき懸人となる」と。
 彼は美と恋愛を人生に対し余りにも人間的、余りにも純情であったにすぎぬ。思うに天地自然の中の漂泊、永遠なる女性に対する 憧憬なくしては夢二の芸術は育たなかったであろう。この種の芸術家に倫理の物尺を当てることは間違っているし、決して妥当なこと ではない。彼のロマンは作品を決していやしめることなく、よく昇華していると思うのは、私のひいき目であろうか。
 然も彼の描く女性は官能的ではないが、柔肌のぬくもりをほのぼのと感じさせる。
 彼は“詩を絵で描いた"特異な作家であり画人としては余りにも詩人であり、詩人にしては余りにも画人でありすぎた」と。

基さんは夢二描くところの「早春」の如く美しい妻と、夢二と彦乃の如き熱烈な恋愛によって結ばれ、2人の娘をもうけたが、美人 薄命の喩えの如く、その妻は若くして此の世を去った。
 夢二病床の辞世にいう
  “日にけ日にけ
    かっこうの啼く音ききにけり
   かっこうの啼く音はおほかた哀し”と。
 然し彼は数年後、後添(のちぞえ)をもらい、一部口さがない人達のひんしゅくをかったが私は一人ひそかに基さんにエールを送ったものだった。
  “なつかしき娘とばかり思いしを
    いつか哀しき戀人となる”
 重ねて基さんの著書の中の夢二に対する文章を引用しよう。
 「彼は美と恋愛を人生に対して余りにも人間的、余りにも純情であったにすぎぬ」。
 「この種の芸術家に倫理の物尺をあてるのは間違いである」と。
 私の敬愛する基さんのご冥福を心より祈りたいと思う。
                           −合掌−