手 紙
(2001年4月号)

縁あって11年前から雑誌「コア」にエッセイを連載しているが、3〜4年もすると一冊の本ができるくらいのボリュームになるので、 厚かましくも今年1月に三冊目の本を出した。
 そして取り敢えず「ご迷惑とは存じますが、お暇がございましたら拾い読みでもして頂ければ光栄です」とその本を友人、知人に お送りしている。
 数日すると本をお送りした人達から、本を頂いて有難うというお礼の手紙が来るようになるが、有難いことにその礼状にそえて 約半数の人が読後の感想まで書いてきてくれるので今後の文を書く上で大いに参考になる。
 私も手紙はよく書くほうだけれど、便箋を前にして先方の人の顔を思い浮かべながら文章を練るのは、なかなかに楽しいものだ。
 手紙は要領よく、わかりやすく、しかも自分の云わんとすることを確実に伝える必要があり、エッセイを書くうえで非常にいい 訓練になる。
 学校でも生徒に変な作文を書かせるより、両親や友人に宛てた手紙を書かせるほうが、遙かに社会に出てから役に立つと思うのだが。

然し、情けないことに最近では手紙が廃れて何でもかんでも電話で事をすまそうとする人が多くなってしまった。
 確かに電話はすぐに相手と話しが出来て、あらかじめ何をどう話そうかと考える必要もなく、その上後々証拠も残らないから大変に 便利で都合がいい。
 またこの頃は携帯電話が大流行(おおはやり)で使用禁止の電車の中でも平気で 電話をする破廉恥な若者や、歩きながら電話をするキザな奴が多くなった。
 まるで、コセコセとした日本人を見ているようで気分が悪くなる。
 私が年をとったせいかも知れないが、手紙を書くまえに、ゆうゆうと墨をすり、その香りを楽しみながら文章を考えるくらいの余裕が ほしいものだ。

等と偉そうなことを書いてはいるが、実は私は生来字が下手で父は常々お前の字は単なる記号で、まったく字の形をなしておらぬ、 もうす少しなんとかならないのかと何時もブッブツ言っていた。
 然し、徒然草ではないけれど、「手のわるき人の、はばからず文書(ふみか) きちらすはよし」で、下手も書のうちではないだろうか。
 下手だと自覚しつつ丁寧に心を込めて書かれた手紙は上手な人のそれより読んでいて心が温まるものだ。
 勿論、手紙は文も字も上手な方が良いに越したことはないが、下手な手紙も心がこもっていれば、それなりに心をうたれ、それを書 いた人の表情や息づかいまで感じとれるばかりか、そこはかとない余韻すら感じられて、感謝の気持も湧いてくるというものだ。
 「ひたくれない」という言葉があるが、何事も一途に情熱をもやすところに素晴らしさがうまれる。

最近は又、携帯電話以外にも大量の情報を即座に送ることの出来るEメールや、「ズッズゥー」と記録紙が出てくるファックス等 は商売に大変便利だけれど、ファックスの手紙を受けとった時には、何ともやりきれない気分になってしまう。
 そこへいくと、手書きの手紙には、用件の外にいろいろな心が伝わってきて、殊に特別に選んだ買いおきの便菱と封筒で書かれた 手紙には、日本の良き文化の匂いがする。
 雑誌社には申し訳ないが、私は原稿を手書で書くことにしている。それはワープロで打った文章は、どうしても自分の文章ではない 様な気がして次の文章を考えることが出来ないからだ。

私の生みの母は生後7ヵ月の私を残して、此の世を去った。その母が祖父母にあてた巻紙に毛筆で書かれた数本の手紙が十数年前、 家の納屋のタンスの裏から出てきた。
 その手紙をじっと見ていると、まったく記憶にない母の温もりや、息づかいまで感じとることが出来て、71歳の息子が23歳の母親を そっとだきしめてやりたい様ないとおしさをおぼえる。
 もしその手紙がワープロで書かれていたとしたら、思っただけでもゾッとしてしまうが、今の世では大いにあり得ることではなかろうか。
 そして非常に恐ろしいことだけれど、ワープロのように冷たく、まるで血の通っていないような母親に手をひかれている子供達を、 電車の中でよく見かけることがある。

美しい書体で書かれた母の手紙は、やはり母の体の一部の様な気がして、今は仏壇の下の引き出しに大切にしまってある。

 「はかなき筆の跡こそ長き
       世の形見にてさぶらへ」

              −平家物語−
 (ほんのわずかな筆跡でもそれこそが末永く形見となるものでございます)。

 「文明が栄えると文化が亡びる」と云った漱石の言葉が脳裡をかすめた。