いつの時代か定かではないが、昔の戯れ歌に、こんなのがある。
「幸せは、いつも三月花の頃
お前十九で私や二十歳
死なぬ子三人親孝行
使って減らぬ金百両
死んでも命があるように」
これは、その当時の人たちが思い描いた理想というか到底叶うことのない願望を歌ったものだけれど、よく読んでみると
「三人の子供と親孝行」を除けば今ではその大半が叶えられているような気がする。
今日では部屋の中を一年中麗かな春のような陽気にしておくこともできるし、医学の進歩によって子供の死亡率は著しく改善された
ばかりか、遂に日本は世界一の長寿国となり、その結果、本人の心掛け次第で我々の青春はいくらでも伸ばすことができる時代になった。
又賛沢さえいわなければ年金制度等の普及によって最低限の生活も保障されている。
そして皮肉なことに、仮に交通事故等で植物人間になったとしても、死ぬことさえ許されぬ時代になってしまった。
従って私達は確かに昔の人が思い描いていた理想郷というか、ある意味での「彼岸」の世界に生きているということができる。
それを思うと、近頃の老人がよく口にする「昔は良かった」等という台詞は、精神文化面(本当はこれが最も大事なのだが)を除けば
願い下げにすべきだろう。
しかし、現実に私達は本当に幸せだと思って毎日を過ごしているだろうか、いや私達は決して今の生活に満足しているわけではなく、
むしろその反対に、いつも心のどこかで不平不満をいだきつつ、どこかに幸福の種があるはずだ、私はこんなに努力しているのだから、
もっともっと幸福になってもいいはずだ、と思いつづけているのだ。
「灰皿と金はたまるほど汚くなる」の譬えの如く、一つの欲望が満たされると更にその上の欲望が生まれ、絶えず増殖され続ける欲望
によってこの世(此岸)に生きる人間は永遠に幸福感を味わうことができぬまま、常に彼岸を羨ましそうに眺めているのだ。
「向こう岸の人生」という題で、かつて吉川英治が次のような話しをしていたのを思いだす。
彼が原稿を書くために、ある温泉に出かけていった時のこと、その日はどうしても筆が進まず、止むを得ず仕事を早めに打ちきって
温泉に入り、夕方から宿の女中さん相手に酒を飲んでいたというのだ。
ところが、しばらくして宿の座敷に燈が入る頃、窓の下を流れる渓流の向こう岸から自分達の部屋にむかって大声で「馬鹿野郎、
極道野郎」と怒鳴っている数人の男たちの声が耳に入ってきた。
なぜ私が極道野郎なのか判断に迷いながら、それでもよく考えてみると、なるほど向こう岸からこっちの座敷を兄ると、自分たちは
一日中汗水たらして働いて、疲れ切って貧しい夕餉をとりに侘びしく吾が家に帰ろうとしているのに、一日中温泉につかって毎夜の如く
女を相手に酒を飲んでいる姿を見せつけられては、つい「この極道野郎」と悪態もつきたくなるというもの。
ところが、こっちにしてみれば、原稿の緒め切りに追われ、良い考えもまとまらず、切羽詰って死ぬ苦しみで原稿用紙に向かっては
みたものの、一向に筆は進まず精神的に疲れ果てて頭の霧をはらそうと温泉に入って女中相手に飲む酒のうまかろうはずもなく、ますます
気持は滅入るばかり、そこへいくと対岸の男達は何の屈託もなく、日がのぼれぱ山に働きにいって良い空気を胸一杯すいながら体を動
かして、さぞ食事もうまかろう、うらやましい限りだ、できることなら代わってやりたいと苦笑してしまったというのだ。
山男達には山男達の吉川英治とは比べものにならない苦しみがあるのかもしれないが、お互いの胸のうちは神ならぬ身の計り知る
ことはできない。
山のあなたの空遠く
幸い住むと人の言ふ
ああ われひとと訪め生きて
涙さしぐみ 帰り来ぬ
山のあなたになお遠く
幸い住むと人の言う
カール・ブッセ
私達はお互いに他人は幸せそうに見えるものだ、そして何とか白分も幸せになりたいと常に幸福の青い鳥を求め統けている。
しかし、私達は本当の幸せとは一体何なのか、その実体を把握してもいないでただ「幸せ」という幻を追い求めているにすぎない。
もうすぐお彼岸、彼岸とは迷いの河を越えた向こう岸、悟りの世界のことで先程の山男のように向こう岸はとかくよく見えるものだ
が、此岸といわれる我々の日常生活の中に地獄があるように極楽もあるということを忘れてはならない。
親と子、夫と妻、兄弟姉妹が和気あいあいと家族の喜ぴを自分の喜びとし、家族の悲しみを自分の悲しみとしていくところに幸せが
生まれる。
お金がなくても、又その日その日の食卓がどんなに貧しくても、心の持ち様次第で少なくとも地獄の苦しみを味わうことはない。
今から二十数年前になるが、二人の娘が大学に通っていた頃、会社の経営が思わしくなくなり、毎日の資金繰りに追いまわされて、
家の権利書は勿論、家族全員の預金通帳等も総て担保に差し出して、目常生活にも困った時期があった。その精神的苦しみから私は目
のまわりの肉が削げて眼球が飛ぴ出し、眼鏡をかけると眼球がガラスにくっついて曇って字が読めなくなり、半ば神経衰弱気味になって
ベッドでは決して眠れぬ夜が何日も続いたが、そんな時でも親娘四人の家族は私にとって決して地獄ではなかった。
妻や娘達もお互いの立場をよく理解して、労い合い、むしろ家族の絆は深くなったと思い、今でも当時のことが懐かしく思い出される。
「けふ彼岸、菩提の種を蒔く日かな」
せめてこの日には、めいめいが自分自身の生活を振り返って反省すると同時に家内団欒のうちに、父母やご先祖様のことを思い出して語
り合うのも意味のある事ではないだろうか。