煩  悩
(2001年2月号)

   「煩悩の犬は追えども去らず
     菩提の鹿は招けども来たらず」

付きまとって離れない犬のように、煩悩は考えまいとしても心から離れようとしない。
 それとは対照的に、いくら呼んでもなかなか近づいてこない鹿のように、悟りというものは得ようと思っても容易に得られる ものではない。
 菩提とは、いうまでもなく煩悩を解き放った迷いのない世界、即ち悟りの世界のことであり、煩悩とは人間の心身にまとわりついて 心をかき乱し、あらゆる迷いのもとになる欲望のことで、百八の煩悩があるという。
 今年の年賀状に私は、小倉遊亀が105才の時の句を引用させてもらった。
   のどかなり 願いなき身の 初詣

此の夜のすべての煩悩から解き放たれた遊亀のすがすがしい悟りの世界がそこに広がる。
 古希をすぎた私も、いずれは彼女の心境になりたいものと、この句を年賀状に印刷することにした。
 そして去年の暮の大晦日から正月2日迄、日光の金谷ホテルに部屋をとり、5人の孫をつれて日光山輪王寺の初詣に行った。

輪王寺の初詣は、今年43才になる長女が生まれる以前から欠かしたことのない我が家の年中行事だったのだが、2人の娘の結婚に つづいて孫達がつぎつぎと生まれたりと、このところ一家揃っての輪王寺の初詣は、とんと御無沙汰となっていた。
 然し、やっと最近になって5人の孫達もあまり手がかからなくなり、いろいろなことがわかるようになったのを契機に、孫達の一生の 思い出に21世紀最初の元旦だけは、日光山輪王寺で迎えさせてやろうと思い、久し振りに日光に来たというわけだ。
 ところが、今年の日光は東照宮が世界遺産に登録されたり、NHKの大河ドラマ「徳川葵三代」の影響もあって、例年にない人出で、 大晦日の午後11時に眠たがる孫をはげましてホテルを出て輪王寺の参道を登ってはみたものの、東照宮の初詣には長蛇の列が出来て いて、お詣りをすませる頃には夜が明けてしまいそうな気がして、止むを得ず初詣は輪王寺だけに止め、久し振りに聞く山伏の 吹く螺貝の音や除夜の鐘の音を聞きながら、年越しそばを食べて帰路に着いた。
凍てつく寒さの中、孫の手を引きながら、20世紀に別れを告げる百八煩悩を除去する梵鐘の音を聞いていたら、自然と小倉遊亀の句 が浮かんだ。

果たして私は、いつの日にか遊亀のよっに「願いなき身の初詣」が出来るだろうか。
 今から30年もかけて、ぼつぼつとその準備をしていけぱ、あるいはその心境に到達出来るかも知れないが、然し今の私は「願いなき身」 どころか願うものばかりで、いつもどの願いを削ろうかと苦労している始末。
 現に今年も挑戦しようと決心した馬場馬術競技の日本選手権上位入賞や、馬の彫刻のことを考え、又孫達の将来のこともあって、 まだまだその様な贅沢はゆるされないような気がして、願いなき身どころか、かぎりなき願いある身の初詣の心境に変わってしまった。
 殊に今年は
一、 60年に及ぷ馬とのつき合いの集大成一として、なんとか自分なりに納得いく馬術を経験して馬乗り人生の幕を引きたい。
二、 新潟競馬場の中央ドームに設置する馬の銅像をはじめとして、一応馬の彫刻家としての目途を立ててみたい。
三、 約30年続けた空調設備関係の会社の体質改善を図り、その基礎を磐石のものにして後顧の憂いをなくしたい。
 この3つだけは何としても達成したいし、その上諸々の心配事がつぎつぎと心に浮かんで何を基準に百八煩悩と云ったのか、色々な 説があるけれど、まさに煩悩の犬は追えども去らずの感を深くしてしまった。

山本周五郎の小説「虚空遍歴」の主人公、中藤沖也の浄瑠璃ではないけれど、馬術にしても彫刻にしても、常により良いものへの挑 戦があるのみで、絶対というものが此の世に決して存在しないということを十二分に承知していながら、尚且、その絶対を求め続けて 虚空をさまよわざるを得ない魔力の虜になってしまった自分に気がついた。
 90才になって、30年後の彫刻の材料を買いこんだ平櫛田中の執念には及ぷべくもないが、しかし、今の私にはその傾向が多分に あるように思えて、今年の年賀状の思いあがりが恥ずかしくなってきた。

然し、仏教に関心をもって仏道を修めようとする私達が立てなければならない四つの願い「四弘誓願」の中の一つに、「煩悩無尽誓願 断」というのがあるが、これは煩悩は無尽なれど誓って断ぜんことを願うというもので、この場合の「断ぜん」は、原語では「整理整頓」、 即ち調えるという意味になるらしい。
 生きている限り決してなくならない煩悩をなくそうと思うと、又そこに新たな悩みが湧いてくるものだ。
 従ってその悩みを断つのではなく調えようというのだが、限りないものを一体どのようにして整理整頓すればいいのか、これは又大変 にむずかしい間題のように思えてくる。然し何とか整理整頓しようと努力しない限り、私達は永遠にこの悩みから解放されることはない だろう。
 云いわけの様に思えるかも知れないが、「煩悩即菩提」という言葉も、しょせん煩悩から逃れることは出来ないのだと観念して、 その煩悩をあるがままの姿として受けとめて、そこに何らかの悟りを見出そうというもので、私の今やっている馬術にしても彫刻にしても 何とか少しでも進歩しようと一生懸命に努力していれば、いつか「煩悩即菩提」の道が開けるかも知れないという期待も出よ うというもの。
 そして幸いにも健康で惚けもせずに百才近くまで生きることが出来たら、その時こそ、ひょっとして「願いなき身の初詣」の心境に なるかも知れない。
 私のこの願い贅沢すぎるだろうか。