早いいもので今年も余す所あとひと月。
この一年を振り返ってみるとやはり長引く不況のせいか日本人の心は荒
むばかり。
昭和20年、日本は敗戦を機に社会の規範であるべき人間としての「徳育」を放棄してしまった。
その結果、多くの日本人は形だけは人間であっても、その中身は「知能の発達した動物」と化していった。
昭和20年の時点で7〜8歳であった子供達は学校に於いて徳育抜きの知識だけを教えこまれた為に、それから20年後の昭和40年代に入り、
それぞれ結婚して子供が出来ても当然のことながら自分達の子供に「徳育」を施す術を知らなかった。
徳育なしで知識の発達した動物人間の子供達は、恐ろしいことに最近になってその誤った教育の結論を出し始めつつある。
神戸の酒鬼薔薇事件・中学生の4才園児虐殺事件・そして、これはどっちもどっちだが首都の中心部で4人の小学生が監禁された事件
等々。
そのつど、世間の人達は驚きと怒りの声を上げるが、知能だけが発達した動物人間と化している加害者の親達は勿論のこと、徳育という
教育を受けたことのない政治家も教育者も、その事実から何一つ学ぼうとはしていない。
結局我々はこれからも又同様な残酷な事件に直面することになるのは火を見るより明らかである。
教育の専門家と自称する偉そうな先生方は「どうか子供にテレビゲームや殺人の方法教えますの如き俗悪なサスペンス物のテレビを
見せないでほしい」と声を低くしてぼそぼそと宣う。
中学生の4才児虐殺事件は、一人っ子で母親の強すぎる誤った愛情が問題視されているようだが、不可解なのは我が子がこれ程の事件を
起こしておきながら、その親が一向に謝罪をしないことだ。
一説によると弁護士先生が止めているのだというのだが、これらの親達も弁護士先生も又、徳育なしの動物人間として育ってきたから
なのだろう。
「法華経」の方便品に「五濁
の悪世
には、ただ諸欲
に楽著
せり」という仏教の時代観が示されているが、その五濁とは、
1. | 却濁−−−− | 時代的にごり |
2. | 煩悩濁−−− | 本能をおさえきれぬ、にごり |
3. | 衆生濁−−− | 人類の質を示すにごり |
4. | 見濁−−−− | 思想の低下にみる、にごり |
5. | 命濁−−−− | 生命の軽視からくる短命的、にごり
|
の5つを云う(菅野啓淳氏訳)と書いてある。
まさに現代社会の様相そのものではないか。
先般、文化庁ば教育制度の改正(?)を行ったが、果たせるかな「徳育」特に「人の命を大切に」と教える宗教的情操教育の必要性は
どこにも謳っていない。
日本人の大人、特に「知識人」と称する輩
の中の病根が未だに取り除かれていない証拠である。
残された道は唯一つ、何としても道徳教育を復活させることだが、ここで先般物議をかもした鴻池構造改革特区・防災担当相の閣議後
の発言を思い出して頂こう。
『少年犯罪は親の責任である。マスコミの報道の仕方にも問題がある。嘆き悲しんでいる家族、棺を担ぎ出す若い両親、こればかりを
映して、決して犯罪者の親を映してはいない。全部引きずり出すべきだと思うのだが、親の保護の元にいる14才以下の子供は犯罪者として
扱うことが出来ない。従って親なり担当の先生なり校長なり、これらの人達を全部テレビの前に引きずり出すべきなのだ。信賞必罰という
か勧善懲悪というか、これらの思想が戦後まったくといっていい程教育の1中に欠落してしまっている。
そういう戦後教育を受けた人達がパパやママになっている。校長先生、教頭先生、担任の先生、政治家、財界人、そして役人達も
皆似たようなものだ。
だからこういう事件をきっかけに、こんな事件をおこしたら大変なことになると、日本中の子供とか親に自覚さすためにも、犯罪を
おかした子供の親達を全部引きずり出すべきだと思う。
それはもう厳しい罰則を作るべきなのだ。親なんか市中引き回しの上、打ち首にすればよろしい。沖縄も、長崎もあるいは数年前の
神戸も、親を引きずり出すべきなのだ。親を市中引き回ししなければいけない、それくらいの事をやらないと駄目だ、そうすれば世間の
親もきっと気をつけるようになるだろう』。
まさに我が意を得たり。
私は諸手を上げて賛成し、拍手喝釆したものだったが、何と次の日彼は少し言いすぎたという様なことを言って、くどくどと弁解して
いた。
きっと彼に対して訂正した方が身の為だといった不届き者がいたに違いない。
それにしても大臣の信念のなさ、一国の大臣にしてこの有様なのだから、まさに何をか言わんやである。
そして尚、私に言わせれば、打首獄門に価する者達はこの外にも大勢いるように思われる。
例えば無能な経済政策によって倒産会社を増産し、その総てが経済・生活苦ではないにしても年間3万人以上の自殺者を出している
政治家や財界人達は当然間接的な殺人者だと思うし、当選目当てだけで実行不可能なマニフェストを
掲げた政治家達も、その目標が達成できなければ潔く自ら断頭台に
登るべきなのだ。
彼らが皆無報酬のボランティアなら私は何も言わないが、然し彼等は皆大変な高給をとり、国民の税金で賛沢な暮らしをし、その挙句
70才になると厚かましくも勲章までもらいに行くから言いたくもなるのだ。
鴻池大臣の言う通り、信賞必罰、勧善懲悪を彼ら自身にも科するべきなのだ。
このように国民の範となるべき政治家が率先して道徳教育の復活を叫ばぬ限り、今の世の五濁をとりのぞく事は、まず不可能である。
然し、なにしろ戦後50数年をかけて徐々に築いたこの悪世、残念ながら何のカも無い今の私には「
ごまめ(*unicode漢字*)
の歯ぎしり」以外に何の手立ても浮かんでこないのが実情である。
−以上−