道 草 人 生
(2003年11月号)

私の書斎に
「人が経験することに無駄なことは一つもない、道草人生はゆたかだ」
 という那須護法寺の住職、中島教之師の書が懸つている。
 今年は冷夏だという気象庁の予報を信じて出場申し込みをした9月初旬の馬術大会は、当日の気温、何と33度、白い砂の馬場内の 温度は40度を優に越えていた。
 Yシャツに白のアスコットタイを首に巻き黒の乗馬服を着て6分半の馬術演技に、私のゴワテックスで縫い合わせた心臓は遂に悲鳴 をあげ、とうとうニトログリセリンの御厄介になってしまった。
 この2年間、まったく馬術競技から遠ざかり、ヨーロッパでの彫刻の個展の準備に忙しかった私の体重は、気が付けばなんと80キロ、 これでは健康にも悪かろうとペダルだけの自転車のような運動器具を使っての毎日約1時間のトレーニングと50年以来初めての禁酒の お陰で、どうにか1割の減量に成功し、2年前の体重をとりもどす事が出来た。

ところが彫刻家としての生命(いのち) をかけたヨーロッパでの個展の延期により、毎日の時間を持てあまし、減量にも成功して近来にない健康体をとりもどしてみると、 またぞろ悪い癖が頭をもたげ、馬術競技に出場して久々に元気なところを見せてやろうと変な色気を出した報いが前述ていたらく の如き為体(ていたらく)となったというわけだ。
 最後まで意地を張らずに、気が遠くなりかける以前に何故途中で棄権しなかったのかと悔やんだが後の祭り。
 2時間程、(うまや)で横になった後、なるべく皆に会 わぬようにと裏道から、そっと馬事公苑を後にした。
 60年間という気の遠くなるような時間と、決して少なくはないお金を使った私の道草、中島師の云う如く、はたして我が人生にとって 「無駄ではなかった」と胸を張る事が出来るだろうか。
 毎日のトレーニングと禁酒によって若返ったと思った我が肉体は、70を過ぎてからの2年間暑さに負けたとはいえ、確実にその老いを 増していたのだ。
 「これで60年に及ぶ我が馬乗り人生は終わった!」と私はいさぎよく観念した。
 それと同時にヨーロッパでの個展が無期延期となった現在、何となく彫刻家としての創作意欲も薄れてしまい、これから先、私に何が 残されているというのだ。
 不安と焦燥が頭をよぎる。
 これから先何年生かして頂けるかわからないが、今迄生き甲斐としてきた馬術と彫刻の夢を失った今、私はどうしても何か別の道草を 探す必要があった。

釈尊は出家をして次の世で幸せになる為に現実を否定しようと苦行を重ねたが、結局その苦行を中途で放棄して菩提樹の下に坐り、 初めて悟りを開いたという。
 坐るという字は土の上に人と人が向かい合って対話をしている姿だと聞いたことがある。
 そして、そのどちらの人も実は自分自身であり、一方は本能や感情のままに生きて生活をしている自分で、もう一人は自分の行動と 冷静な目で批判的に見つめる自分なのだという。
 要するに自分の内で感情的なエゴと、それを批判する自己が対話して、本当の自分を見つけようとしている字が「坐る」 なのだというのだ。
 それなら私も菩提樹の下に坐って悟りを開いた釈尊のように、この辺りで一つじっくりと考えてみる必要がありそうだ。
 幕末の漢学者、中村正道が翻訳したサミュエル・スマイルズの「セルフ・ヘルプ」という本によれば、「セルフ・ヘルプ」とは修養と 同意語だと書いてある。
 私が還暦を迎えた今から13年前、父が私に修一という名前をつけた由来を書いたメモが出て来た。
 それによると、修一という名前の(いわ)れは精神的には修養の結果、 人格円満を意味し、刻苦勉励によって最後の勝利者となる名前だと書いてあった。
 何のことはない父から修一とつけられた以上、「セルフ・ヘルプ」以外に救われる道はないということなのだ。
 さらに修養の修は修身の修でもあり、修身とは身を修めることに外ならず、自分の意思の力で自分の一身を支配し、己に勝つ「克己」 ということである。
 子供の頃より馬術という或る程度お金が物を言う因果なスポーツを選択し、その上、60を過ぎてから自己満足以外の何物でもない彫刻 という大変な道草を喰ってしまった私は、これから先どうやって克己心をふるい立たせて豊かな道草人生を送ればいいのか。

幸田露伴は「逆順入仙」ということを言っている。
 「逆順」とは唯自然にまかせて老いていくのに逆らった生き方であり、「入仙」とはそれによって肉体的にも精神的にも、いつまでも 若々しく生きることだという。
 残された人生、どうすれば「逆順入仙」の域に達することが出来るのか、おそまきながら精神的な修養により人格円満を心掛け、 刻苦勉励によって修一という名前に負けぬように頑張るしか道はなさそうである。
 悩みがあるから救いがある、迷いがあるのはいいことなのだと思いなおして。

− 以上 −