学生スポーツ
(2003年9月号)

平成15年7月20日、私は生まれて初めて大学で100人程の学生を前に話をする機会にめぐまれた。
 これ迄にも経済同友会の「同友クラブ」、宗教団体、南無の会の「辻説法」、母校慶應大学の卒業生のクラブ「交詢社」やその他 各地区のロータリークラブ等のお招きを頂き話をさせて頂いたことがあるが、その話の内容は大体満60才の時の心臓手術を契機に始めた 彫刻や馬術の現役選手としての経験談等である。
 彫刻や馬術という一般の人にはあまり縁のない話のせいか、物珍しさも手伝って、それぞれに一応の反応があったものと自画自賛して いたが、今回の早稲田大学でのそれは又一味違う反響があって、失望しかけていた現代の若者達のイメージを見なおす又とない良い経験 をすることが出来た。
 今回の講演は大学の学生達の体育実技の一環としての授業という形式をとった為、今迄の「第二の人生」というか老人の生き方的話し ではなく、これからの大学の運動部のあり方について長年私が思っていたことを率直に学生達にぶっつけたというわけである。

大学卒業後間もなく私は学生馬術会の代表として社団法人・日本馬術連盟の理事となり、昭和30年代前半から東京オリンピックを迎 えた昭和39年までの約10年間、私なりに学生馬術発展の為に働いたつもりである。
 然し、東京オリンピックの開催が決定した頃より日本国内にスポーツ振興の機運がにわかに高まり、日本の高度成長とも重なって、 裕福な社会人やその家庭の子女達が金に糸目をつけず優秀な馬を海外より輸入して競技会に出場するに及び、乏しい予算内で運営される 学生馬術の影は急速に薄れ、凋落の一途を辿っていった。
 尚、この傾向は単に馬術界のみに限らず殆どの運動競技に見ることが出来、かつては単なる大学のOBにすぎなかった社会人選手達が 企業の後押しを受けて運動に専念し「企業アマ」に変身するに及び、社会人の競技力は飛躍的に進歩し、学生 のそれをはるかに越えてしまった。

戦前は勿論、戦後に於いても常に学生がスポーツ界をリードしつづけてきたというのに、東京オリンピックの誘致が決定してからと いうもの、その地位は社会人選手達に取って代えられ、オリンピック選手団でも近年は学生が選手全体の4分の1程度にまで減少して しまった。
 因みにその割合は1992年のバルセロナでは27%、1996年のアトランタは23.9%となり、その現象はバブル崩壊後の今日変ることがない。
 私達が大学生だった昭和20年代半ばの馬術界は、そのレベルこそ世界に比較して低くはあったけれど、それでも全日本選手権等で活躍 していた選手達は、その大半が大学生で私等も明らかに日本馬術界をリードしていたという自信と誇りをもって社会人として巣立つこと が出来た。
 従って我々の学生時代、馬術をやることはそれなりに意義があったように思われる。
 然し現代の学生達は全日本選手権はおろか国民体育大会や一般の競技会にすら出場することが出来ず、その出場の場は程度の低い 学生間の競技会に限られるという惨めな状態に追い込まれてしまった。
 それにも拘わらず、従来の誤った体育会的スパルタ訓練を繰り返し、競技会志向を変えようとしない学生馬術界に対し、私は学生馬術界 の代表として日本馬術連盟に、最早大学の運動部は競技志向を捨てて学生達に学生本来の姿に立ち返らせるべきだと主張したところ 残念なことに忽ち学生馬術連盟の理事を馘首され、同時に日本馬術連盟の地位も失ってしまった。
 然し、私は今でもその時の主張は正しかったと確信しており、その時の思いを早稲田大学の体育実技を受けに来た学生達にぶっつけた というわけである。

少々前置きが長くなったが本来の学校とは、その語源を「孟子」に由来し、その本来の姿は「知育」「徳育」「美育」を目的とする処で あった。
 即ち、岩波の広辞苑によれば、
1.知育一知的認識能力を高めることを目的とする教育
1.徳育一道徳面の教育
1.美育一美の鑑賞と創作能力を養うことによって人格の向上を目指す教育
 そして、以上の三つを満足させる為に或る程度の体力を必要とするところから新たに「保健体育」を追加したのだ。
 それがいつの間にか美育がなくなり、保健体育の保健が消えてしまった。
 それでは体育とはいかなるものか、これも広辞苑によれば、
1.体育一健全なる身体の発展を促し、運動能力や健全で安全な生活を営む能力を育

成し、人間性を豊かにすることを目的とする教育
と明確に書かれている。
 従ってどの大学の運動部も概ね○○大学体育会○○部となっているのだ。
 即ち、どの大学の運動部も体育会である以上試合に勝つことを主目的とする部であってはならず、勝つ事を目的とする一般スポーツと、 はっきり区別すべきなのだ。
 それなのに学校をはじめ一部スポーツ関係者や、お調子者のマスコミ達は、スポーツ(運動競技)と体育とレクリエーションを混同し、 体育会本来の意味をとりちがえ、勝負のみにこだわり、その結果学生生活の中で本当に大切なものを見失ってしまったのだ。

それでも、運動等に(うつつ) をぬかしている若者達は良い方で、髪を金色に染め、腰の下までズボンをずり下げ、女の子は学校の制服のスカートをたくし上げ、 見事な大根足を恥ずかしげもなく人前に晒し、舗装道路にベッタリと尻もちをついて携帯電語をかけている不潔、不健全、不可解な 現代の若者達、そしてマスコミが育て上げた脳味噌の量の少ない無教養なタレントと称する若者達の延長線上にいると思っていた大学 生たち。
 そのようなイメージを持って臨んだ大学での講義であったのに、今私の目の前にきちんと坐っている学生達を見た時、私の大学生に 対する認識は一変してしまった。
 今の現実を直視し、本当の自分を見出そうと模索している大学生、彼等の瞳の輝きを見た時、これからの日本も満更捨てたものではない ことに気が付いた。

テレビやマスコミが殊更に報道し一般大衆に植え付けた現代の傍若無人な若者達以外にも、健全な生活を営む能力を持ち、人 間性豊かな生活を送りたいと努力している若者達を発見し、その夜は殊の外おいしい晩酌を楽しむことが出来た。