五輪に未来はあるのか
(2003年8月号)

いよいよ来年(2004)はアテネ五輪の年だ。
 かく言う私も2002年には馬場馬術競技の世界ランキング82位にランクされ、日本の五輪強化選手として一時は良い馬を購入して 五輪に出場したいという望みを抱いたが、残念ながら金銭面と私の健康の両面から家族全員の猛反対にあい、その野望は敢え無く (つい)えてしまった。
 長年の夢であった五輪出場をあきらめざるを得なくなった腹いせというわけではないが、今回は特に「五輪に未来はあるのか」という ことで、とかく問題の多い五輪の意義について考えてみようと思う。

紀元前八世紀、デルフィの神殿に詣でたエリスのイフィト王は、絶え間のない都市国家の紛争を、せめて一時的でもいいから中止さ せることの出来るイベントを考えるようにとの神のお告げを聞き、スポーツを通して都市国家の偏狭な枠を超越した人類の祭典を開催 することによって都市国家間の平和をもたらす事が出来るに違いないと考えた。
 現代の五輪は、そうした古代オリンピックの精神を継承して、1896年ギリシヤのアテネに於いて見事に復活を遂げたといえる。
 従って現在の五輪憲章には、「五輪精神に基づいて行われるスポーツを通して、青少年を教育することによって平和でより良い世界 づくりに貢献すること」と明記されている。
 即ち「スポーツ文化を通して世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通じて互いに理解の度を深め友情の輪を広げる ことによって住み良い社会を作り、ひいては世界平和の維持と確立に寄与すること」をその主目的としたのだ。

故に五輪スポーツは決して国と国との戦いではなく、国を代表する個人個人が国際交流を深める為のお祭りであったにも関わらず、 第二次大戦前夜のベルリン五輪(1936)ではナチス・ドイツによって国威発揚の宣伝のために利用され、ミュンヘン(1972)は中東地域に おけるイスラエルとアラブ過激派との抗争にからむテロ行為によって血塗られ、更にモスクワ(1980)とロサンゼルス(1984)は政治が介入 し東西でボイコットの応酬があり、片肺飛行となってしまった。
 その他にも記憶に新しいソルトレークシティ冬季大会では大国の圧力のもと、ISU(国際スケート連盟)の裁定を、IOC(国際オリンピック 委員会)がくつがえすという前代未聞の事件がおきてしまった。
 即ち、フィギュア・ペアの順位繰上げに端を発した裁定ミスは、その後、様々な抗議を引き起こし、判定員の不正疑惑や薬物使用の 問題にまで発展し、大国の圧力、更には強カスポンサーの圧力が勝負の世界に大きくのしかかり、競技場の判定が会議場に持ち越される 結果となってしまった。

かくしてお互いの友情を築きあげるはずの五輪は敵対意識をかりたてる戦いの場となり、最早フェアープレーやスポーツマンシップ という言葉は五輪選手の間から消え去ってしまったかに思える。
 ()てて(くわ) えて、その傾向に拍車をかけたのが五輪に対する研究不足のマスコミであり、彼らは勝負のみに重きをおいて各国の獲得したメダルの色 と数のみに拘泥し、フェアープレーやスポーツマンシップを全く評価しなくなってしまった。
 その上更に問題なのは、このフェアープレー無視の精神は、誤った愛国心と相侯(あいま) って選手たちよりむしろ審判員の間にその意識が強く働いているように思われる。
 20世紀最大の発明とさえ称賛された五輪も、このままの状態が続く限り未来があろうとは思われず、そればかりか真の姿の五輪に未来 がないということは、恐らく全人類の未来さえ消滅する運命にあるとも云えるのではなかろうか。

前述した如く、元来五輪とはその発生の精神からしても、世界で最も強く速い優秀な選手が集い、その技を競う大会ではないのだ。
 各種目毎の世界一を決める競技会は、世界選手権大会という(れっき) とした競技会が存在していることを忘れてはならない。
 各国の五輪関係者も、そしてマスコミも、五輪と世界選手権の性質の違いを、はっきりと理解すべきなのだ。
 五輪の金メダルと世界選手権の金メダルとではその価値に於いて大きな相違があることを銘記し、勝負のみにこだわることを大いに 慎むべきである。
 そこにこそ選手達は「五輪は参加することに意義がある」と胸を張ることが出来るのだ。
 しかるに、我が国の文科省は2001年4月、スポーツ振興基本計画に基づき日本オリンピック委員会(JOC)に、2010年までに五輸メダル 獲得率を倍増するための具体方策「ゴールドプラン」なるものを策定させた。
 もっとも関係者にしてみれば日本の威信にかけて他国におくれをとりたくないという気持ちがわからぬでもないが、然しあまりにも それに拘泥しすぎるのは本来の五輪精神から逸脱することになりかねない。

勉強不足の文科省あたりの言う事を聞くことなく、第57回「よさこい国体」で高知県がとった勇気ある態度の如く、日本オリンピック 委員会は毅然として五輪本来の意義を全世界に呼びかけるべきだと思う。
 オリンピックという世界の共通語の中で、政治や経済から独立し、純粋な青少年達が自分達の力で平和でよりよい世界をつくるのだ という自覚のもとに五輪を盛り上げることが出来るとするならば、全人類にとっても大きな救いとなり五輪の未来は輝かしいものと なるに違いない。
 その意味からしても2004年の五輪発生の地アテネでの五輪開催は責任重大といわざるを得ない。
 以上が73才の五輸落ちこぼれ選手の「ごまめ(*unicode漢字*) の歯ぎしり」なのだ。