百尺竿頭(ひゃくせきかんとう)
    一歩を進む
(2003年5月号)

学校にも行けず勤労奉仕に明けくれて、楽しいことなど何一つなかった戦争中の私にとって、唯一の慰めは本を読むことだった。
 本を読むといっても、近頃のように新刊本がズラリと本屋の店頭を飾っているわけもなく、幸いなことに家の近くに間ロー間程の 貸本屋(現在では殆ど見かけなくなった)のあったのをいいことに、毎日のように本を借りては(むさぼ) るように読んだものだ。
 お陰で今でも私は古本屋の雰囲気と、あの古本の匂いが大好きで、その匂いをかぐと子供の頃の懐かしい思い出がふつふつと蘇ってくる。
 つい先頃も、フラリと立ち寄った古本屋で一見してどこかの家から最近引取ってきたばかりと(おぼ) しき古本が、ビニールの紐に束ねられて積んであるのが目に入った。
 それらの本は装丁からして明らかに明治・大正時代の顔をしているくせに、古色蒼然とした処がなく何とも不思議な感じで更によく 見ると、どれもこれも明治・大正の文学史に不滅の足跡を残した名作ばかりだ。

そこで、これらの本の素性を店の親父(おやじ)に尋ねると、これは全て明治・大正時代の初版本とまったく同じ装丁、同じ紙質、同じ印刷で 25年前に出版された「名著復刻全集」で新品のまま全119冊が完全に揃っているという。
 値段を聞くと定価の10分の1。
 これはまさしく掘出し物だと思ったが、一応付録の解説本の一覧表と照合して再チェックの上、その日のうちに私の書斎に収まった。 書物というものは、内容は勿論のこと、その装丁に窺える時代の風俗や好尚とも決して無縁ではあり得ない。
 119冊のうちには、何辺も繰り返して読んだもの、拾い読みして筋だけは知っているもの、或いは題名だけしか知らないものと、 それらはまさしく私の心の故郷(ふるさと)そのものだった。
 菊判・角背・天金アンカットの「我輩ハ猫デアル」。四六判・並製・三方アンカットの有島武郎の「生まれ出る悩み」。 菊判・丸背三方つぎ表紙の堀辰雄の「風立ちぬ」等々。
 どれ一つとっても頬ずりしたくなるような本ばかり。急に大金持ちにでもなったような気分で、さて、一体どの本から読もうかと 一瞬迷ったが、やはり音懐かしい三方アンカットの本から読むことにした。

久しい間、小説には縁のなかった私だが、ぺ一パーナイフで丁寧に頁を切り開くと、小説の筋を追う前にまず古本特有の一種 (かび) のような懐かしい匂いが私の鼻をくすぐる。
 そのうえ、ぺ一パ一ナイフで開かれた袋とじの中の活字は、紛れもなく今暗の世界から解放されて人間の目にふれたのだ。
 私は、何十年振りかでぞくぞくする様な快感と、何故か私だけがこの雰囲気を一人占めしては申し訳ない様な気持になって、 そっと本の表紙を撫ぜてみた。
 芥川が、藤村(とおそん) が、そして川端康成や志賀直哉が精魂こめて綴る名文に酔いながら、彼らがそれを書いていた時代に思いを馳せると、 「ひとり燈火(ともしび)のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするぞこよなく慰むわざなり」といった徒然草の吉田兼好 の気持が痛い程よくわかる。

吉田兼好とは比ぶべくもないが、然し私の「馬耳東風」も十年一昔どころか、13年間も書き続けたことになり、又彫刻も生まれて初 めて馬事公苑の正面前に銅像を設置してから13年の年月が流れた。
 そして彫刻やエッセイを書く切っ掛けとなった心臓の手術をしたのも、やはり13年前のことだ。
 最近何となく自分の文章や彫刻に物足りなさを感じていた私は、今は亡き文豪達の美しく力強い文章に刺激され、なんとしても今迄の マンネリの殻を破り新境地を開いてみようという気になった。
 気障(きざ)なようだが、私もやっと73才、幸い身体の方も悪いところは修理済みで部品も大体取り替えてあるから何とか次の車検までもちそう だ。それなら一つ巨人軍の原監督ではないけれど、今年が私のプロローグと位箇づけて、もう一ふんばりしてみることにしよう。

そこで思い出したのが、いつの日にか私の座右の銘にしようと思っていた景徳伝灯録の「百尺竿頭一歩を進む」という言葉だ。
 ある目的や境地に達しても、そこに止まる二となく更に向上するように努力するというこの言葉は、大袈裟に言うと宇宙という無限の 可能性に挑戦するということなのだ。
 然し、やっと73才になったばかり等と威勢のいいことを書いてはみたものの、実際は心臓の手術で喉の下から臍の上まで数十針、 そのすぐ横から臍の下まで腹膜炎の手術で十数針、更に馬に乗りすぎた報いで尿道閉塞と前立腺肥大と痔の手術という具合にだんだん 下にきて、尚その上ご丁寧に「真中通って中央線」ではないけれど、背中にまわって脊椎間狭窄症で今迄に縫った糸を全部ほど くと秋刀魚の開きになりそうな身体では、いささか竿頭から一歩をすすめるには荷が重い。
 かといって、これから先の人生、何の目標もなしに唯々漠然と生きてゆくことを考えると更に気が滅入ってしまう。
 それなら、この辺で一大決心をして新たな努力目標をつくれば、もう一ふんばり出来るかも知れない。少々しんどいが夢を持つこと にしよう。幾つになっても夢を持つのはいいことだ。

「夢」という漢字は、上に覆いがあって、その下に「タ」がある。つまり「夜のやみにおおわれて物が見えないこと」と漢和大字典に 書いてある。
 老いたりといえとも勇気を出して夢を夜のやみから引きずり出して現実のものにしてみよう。
 足がひょろついて竿の先から転落したら、それはその時の事、何もしないで棺桶に入ってから悔やむよりはましというもの、兎に角、 宮本武蔵ではないが「我事において後悔せず」といくことにする。
                               −合掌−