江 戸 ッ 子
(2003年4月号)

今年は江戸開府400年の記念すべき年だ。
 今から20年前、父が死んで、なけ無しの遺産相続をする段になった時、親一人子一人の私だが、万が一、私以外に 誰か私の知らない相続人が現われては世間様に恰好が悪かろうと(お通夜の晩に仏様の愛人が突然現われて愁嘆場を演じ たり、又は告別式に喪主と瓜二つの顔が焼香に来て親戚の者を慌てさせたりと世間にはよくある話しで、実際身内の葬儀 にも何度かそんなことがあった)一応相続証明書なるものを司法書士につくらせることにした。その結果、私以外に相続人は いなかったが、相続証明書のお陰で明治40年に死んだ祖父の本籍が、東京市京橋区築地1丁目5番地(後に東京都中央区 築地1丁目となり現在ではその跡地に中央区役所が建っている)だったことがわかった。

その頃の築地・明石地区は当時の地図をみてもわかるように明治期の西洋文明の受け入れ口となっていた為、築地ツ子は 江戸ツ子気質に加えて可成り進歩的な若者が多かったように思う。
 ()てて加えてその場所は新富座のまん前、歌舞 伎座はすぐ裏手とあっては、いろいろと誘惑も多く、この土地に育った父は、8人兄弟の末っ子で 上の3人の兄達(伯父)はともに身の丈一米八十糎近く、色白で鼻筋が通り役者にしたいような男前 で常に頭は角刈り、歯切れのいい生粋の江戸弁を話し、歌舞伎の「三人吉三廓初買い(さんにんきちざくるわのはつがい) 」紛いに3人揃って花柳界ではなかなかの人気者で、それぞれ馴染みの芸者も1人や2人ではなかったようだ。
 上の3人の兄達の放蕩振りをいやという程見て育った父は、その反動として子供の頃から勉学に勤しみ慶応大学を主席で 卒業後、三井銀行に入社し、真面目一筋の人生を全うした。
 その様な理由(ワケ) で3人の伯父達は私の顔を見ると、「修坊、お前の親父は出来そこないで頭がカチカチだがお前はあんな親父の真似は するんじゃないぞ」とよく云われたものだ。
 どっちが出来そこないなのかわからないが、兎に角、相続財産は釜の下の灰まで己の物となったのだから出来そこない の親父にも感謝しなければなるまい。

そんな父でも、やはり血は争えぬものとみえて、歌舞伎や新派が大好きで、自分でも清元(江戸浄瑠璃)や小唄、端唄を習い、 よく新橋の馴染のバァサン芸者をつれて家に帰り、私の母と2人の二丁三味線の連弾で新内の「若木仇名草 (わかぎのあだなぐさ)」(蘭蝶(ランチョウ))等を語っていたものだ。
 門前の小僧習わぬ何とやら、おかげで、斯くいう私も三筋の糸にのせて小唄や都々逸は無論のこと新内や常磐津、 果ては歌舞伎役者の声色等もお手のもの、「親父様より若旦那の方がよっぽど筋がいい」とのバアサン芸者のご託宣。 その点私は面相(メンソウ)の方は可成り劣るが、どうやら3人の叔父達の血を多分に引いているのかもしれない。

大学を卒業して最初に入った会社の同僚に柳橋の料亭「いながき」の息子がいて、ボーナスの入ったのをいいことに、 その料亭で芸者を揚げて粋な喉を聞かせたまではよかったが、勘定書きをみてビックリ。ボーナスどころか1ヵ月分の 月給までもっていかれてしまった。
 バブルがはじけて「倒産トーチャン」の身となった今では、たまに烏森あたりで一杯やりながら新内流しを冷やかすのが 関の山、ところが烏森で唯一人頑張っていた新内流しで父によく似た富士松時三郎さんの姿もこの頃ではとんと見かけなく なり、なんとも淋しい限りだ。

俗に生粋の「江戸ッ子」というのは三代続かなければ駄目だと云うから、その点私も一応「江戸ッ子」の端くれのつもり でいたが、数年前「乗馬ライフ」という雑誌に私の紹介記事が載ったことがあり、その中で私の事を「江戸ッ子の ジェントルマン」と書いてくれたところを見ると、私も満更捨てたものではないと思った。
 爾来、私はその名前が大いに気に入って、何とか本物の「江戸ッ子のジェントルマン」になりたいものと日夜密かに 努力している。
 「江戸ッ子」という言葉は、いつの頃から伝わったのか定かではないが、岡本精堂の「江戸に就いての話」の中に、 「江戸ッ子というものは諸国の移住者によって一種の気風がつくられ、それが段々と純化されたもので、一々元を洗い ただせば真の江戸ッ子などという者は殆んどいないと思う」というように、家康入府以前の江戸は、江戸湾に面 した一寒村にすぎず、町人の気風等というものがあったわけではなく、家康が江戸に移り城下町が形成され、徳川260年の 間に町人の間で徐々に醸成されていった気風がいわゆる「江戸ッ子気質」といわれるようになったらしい。
 更に、物の本によると、宝暦年間から寛政改革までの約40年間に江戸は武士の都から町人の町へと急速な変貌を遂げたが、 その間に「江戸ッ子」の気風も確立したと書かれている。

私達は「江戸ッ子」というと、すぐに八ッあん、熊さん、横丁の隠居や臥煙(ガエン) (江戸の火消し人足)を連想しがちだが、それは皆、歌舞伎や狂言、落語や川柳・落首・小咄等の影響によるところが大だと 思う。
 然し、本来の江戸ツ子気質というのは、決して熊八的江戸ッ子ではなく江戸時代の町民は、概して非常に地味な暮らし をしていたようで、江戸時代、少なくとも明治末までは江戸に暮らす者の条件として、

1.人に迷惑をかけないこと
2.律儀であれということ
だったようだ。
 然し、そうはいっても江戸の町が徐々に栄えてくるにつれて、江戸ッ子の心の中に、江戸は日本の文化の中心だという 誇りが生まれ、余所者を不粋で何となく泥くさいという目で見るようになっていった。
 その証拠に
「江戸ッ子の生まれそこない金を溜め」
「江戸ッ子は五月の鯉の吹き流し」
「江戸ッ子は宵越しの銭は持たねえ」
等と、淡白でさっぱりとした、ものに執着しないところに一種の誇りのようなものを感じていたのだと思う。
 恥ずかしながら「倒産トーチャン」の私も、金がなければないで、すっからかんの生活を結構楽しんでいた時期もあった から、私の中にも少しは江戸ッ子気質が残っていたのだと安心した。

いづれにしても、大川端の新内流しに止みがたい郷愁を覚え、いまだに泉鏡花の「婦系図」や「歌行灯」の女に、 いいしれぬ魅力を感じるのは、やはり物心ついた頃から3人の悪伯父に仕込まれたお陰だと思っている。
 然し、この3人の姿からは古き良き時代の「江戸ッ子」を感じることは出来ても、「江戸ッ子のジェントルマン」 の面影を見ることは出来ない。
 「江戸ッ子のジェントルマン」のイメージとなると、やはり出来そこないの銀行員の方が遥かに それに近いような気がする、つまるところ私は理想の人間像を父の中に見つけようとしていたのか も知れない。