生 老 病 死
(2003年2月号)

東海道新幹線の掛川駅からタクシーで約20分のところに、遠州第一の名刹と謳われた曹洞宗の可睡斉(カスイサイ) という一風変わった名前のお寺がある。
 その寺に1995年の夏、「南無の会」(既成の宗教にとらわれることなく、“生きることの意味”を学び、 あらゆるものと共に生きるよろこびを求めていこうという集まり)の主催で座禅を組みにいったことがある。
 その時の経験談は、7〜8年前に本誌に掲載したことがあるが、その座禅会の催しの一環として 佐藤健という人の講演があった。
 彼は昭和61年、毎日新聞社の記者として入社、後に「宗教を現代に問う」という新聞社の企画に参画し、 「密教の風景」の担当者になったのを機に宗教とは何か、禅とは何かを自らがその外側にいながら語ることの もどかしさを痛感し、ついに雲水になってしまったという変り種である。
 そのときの記事は後に「ルポ仏教」となって出版されたが、彼はその本の「はしがき」に、「仏教が『生老病死』 という根源的な苦から出発するならば、やがては確実に老いて死ぬことに新聞記者といえども無縁ではありえない」 と書いている。
 宗教記者となった彼は、その後「マンダラ探検」「東欧見聞録」等を出版したが、8年前の彼の講演は心臓手術が 成功して真の第二の人生を歩みはじめたばかりの私にとって非常に新鮮で又感銘深いものだった。

その佐藤健氏の名前を去年の暮れの12月3日の毎日新聞で見つけた時、私は即座に彼のエネルギーあふれる野武士 の様な風貌が頭に浮かんだ。
 然し、秋田県田沢湖町の玉川温泉で放射線を放つ地面に、ゴザを敷き毛布にくるまって岩盤溶をしている彼の写真を 見た時、これがあの時の佐藤健氏なのかと一瞬我が目を疑った。
 それもそのはず定年を目前にして末期癌を宣告された彼は、どうも長くはないらしい。生涯一記者として「生老病死」 という人類永遠のテーマを追いかけてきた僕自身が最後の二文字を突きつけられたからには、42年問の記者人生の 締めくくりとして末期癌になった者にしか書けないルポを残したいと「生きる者の記録」と題して12月3日か ら21日まで計15回にわたり連載記事を発表したのだ。
 私の最も親しかった学生時代の友人と、肉親に縁の薄い私が実の兄とも思っていた義兄を去年の暮れに相次いで 癌で失った私は、この2人の日に日に変貌してゆく姿を目のあたりにしていただけに、この佐藤氏の病床での記事は 胸をうつものがあった。
 従って、朝起きると真っ先に新聞を開いて、評論家、秋山ちえ子さんの言う「何か尊いものに触れるような気持ち」 で迫力のある本当の言葉を読ませて頂いた。

彼はこの連載の最後に、11月で定年退職の予定を延長してもらい来年1月中に又執筆を再スタートするので、 しばし小休止します。年末に一度クリスマス原稿をお届けします。と書いてあったのでクリスマスの新聞を複雑な 気持ちで待っていたが、遂に彼の記事は新聞に載ることがなかった。
 「生は光 死は闇 私達の生とは闇と闇との空間を横切る星なのかも知れない」。12月16日、彼は奥さんにこう 語ったというが星に例えた彼の一生は、あまりにも短すぎた。然しその星の光は燦然と私達の頭上に輝いて決して消えることがない。
 義兄が亡くなる前日の12月12日の朝刊に彼は「32才の時に仏教の取材で自から雲水となって以来、僕は生老病死という 根源的な苦を宗教のサイドから見つめてきた。中でも極楽浄土の概念をもたらした阿弥陀信仰は日本人の死生観を探る 重要なテ一マだった。
 まさか自分の病気と死を見つめながら阿弥陀を書くことになるとは思いもよらなかった」と書いている。
 新聞の新刊書の広告欄には毎日必ずといっていい程「癌は必ず治せる」とか「私はこうして癌を克服した」、はては 「末期癌が完治した」等という文字が踊っている。然し私の知る限りでは末期癌を克服した人は唯の一人もいない。

去年の暮れ。相次いで此の世を去った友人と義兄は、ともに私と同じ昭和5年生まれ、この二人をよく知っている 小学1年生の孫娘に、「それじゃ、おじいちゃんも、もうそろそろだね」と言われてしまった。
 去年の日本男子の平均寿命は78.07才だというのに、60才の彼の死はあまりに早すぎた。
 「生老病死」を四苦というが、この四文字から「病」を抜いて「生老死」とくれば、見方によれば「三幸」と云えなくもない。
 生まれた以上、老いて死ぬことは苦しみかも知れない、然し人間として生まれた喜び、今こうして生きている喜びは 絶対に生苦、老苦に優るし又そう思うべきなのだ。
 唯、その四文字の中の「老」が「若」にかわって「生若病死」となると「四苦」が俄かに現実味を帯び、又後に残され た者達にとっては、やりきれない思いが残る。
 佐藤氏は日本の男性は自分の体ときちんと向かい合うことに消極的だと云うような事を書いていたが、常に不摂生を 慎み、健康に注意して天寿をまっとうすることは此の世に生をうけた者の一生の一大事なのだ。

内村鑑三はその著「後世への最大遺物」の中で、「後世に遺すものは何もなくても、又我々に後世の人に是ぞと云って 覚えられるべきものは何もなくとも、あの人は、此の世の中に活きている間は真面目な生涯を送った人であると言 われるだけの事を後世の人に残したい」。更に「人間が後世に残すことの出来る、そして是は誰にも遺すことの出来る ところの遺物で、利益はあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましく高尚な生涯である」と書いている。

 12月28日、午後8時16分、「ご愁傷様でした」と医師が告げる。奥さんが拍手した。そして息子さんが、みんなが 拍手で送った。
 同8時26分、みんなで健さんを囲む。家族、仲間、医療スタッフ……。
 ホワイトホースのグラスを手に息子さんが言った。
 「よき父、よき男、よき友の健さんにまず一杯目の献杯を」「献杯」。
 そこで新聞の記事は終わっていた。
 佐藤健氏の勇ましく高尚な生涯に献杯。
                     −南無− (2002年12月29日記す)