元旦や この心にて 世にいたし
(2003年1月号)

    新年
     おめでとう御座います。

でたい」を「目出たい」と書くと、サイコロを振って、よい目が出たところから好運にめぐり会うということで、 「芽出たい」と書けば一陽来復、陰が去って陽がめぐりきて草木の芽が萌えいで幸福感にひたって天の恵みに感謝 することになる。
 そんな気持になったことがついぞなかった様な気がして、この十年来の私の書いた「馬耳東風」の正月号を読み直 してみたが、案の定「めでたい」正月を迎える事ができたと書いた年は唯の一度もなかった。
 殊に最近のラジオやテレビのニュースを聞いていると、ニュースとは悪いことだけを報道するものだとさえ思えてくる。

   “家周囲を福の神がとりまいて
     貧乏神の出どころがなし”

古典落語にこんなのがあったが、まさしくこの句は今の日本を取り巻く環境を言い得て妙ということができる。
 八百万(ヤオヨロズ)の神々の中で万人から一番好かれるのは間違いなく、「福の神」であり、誰からも毛嫌いされ、敬遠される のは「貧乏神」だろう。
 毎年、節分になると、あちらこちらの家から「福は内、鬼は外」というやけっぱちな声が聞えてくる。 ところが前記古典落語の句はまったくその逆で、「福は外、鬼は内」の状態なのだから始末が悪い。
 小泉さんが総理になった時、友人の或る銀行の重役に「貧乏神のような顔だ」と言って彼の顰蹙(ヒンシュク) を買ったが、 最近なんとなくその予感が的中しそうな気がしてきた。
 今でも銀行の重役をしている友人も、きっと私の先見の明に驚いていることだろうが、小泉さんが銀行ばかりか、 日本全国の本当の貧乏神にならぬことを祈るばかりだ。

せっかくの「めでたい」はずのお正月だというのに、つい愚痴めいた暗い事ばかり書いてしまったが、今月号の 「元旦や この心にて 世にいたし」という結構な昔の句でさえ、そんな幸福な気分で正月を迎えることの出来るのは、 一部無責任な政治家と高級官僚ぐらいなものだろう。
 然し、この句の本当の意味は、「人なみの心の中にかしこくも七つの福の神はいますなり」と云うように、 心の持ちよう一つで貧乏神や疫病神も福の神に変身させることが出来るということなのだ。
 貧乏人なら借金を申し込まれる心配も、泥棒に入られる心配もなく、金が無ければ暴飲暴食によって コレステロールがたまることもないだろう。
 又貧乏神のけん制力によって破廉恥な浮気の虫も封じ込めることが出来るというものだ。
 貧乏人には貧乏人なりの福の神がいると思うのだが、取り敢えず今月は正月のことでもあり、七福神について少々書いてみよう。

七福神は、いわずと知れたインド、支那、日本の三国の神々で、この三国の神様を 仲良く一艘の宝船に乗せて、風も静かで浪も穏やかな海に船出させ、世界平和を祈念したもので 「平和の基は七福の徳に帰する」とする昔の人の教訓なのだ。
 この七福神について、天海僧正や咄堂翁(トツドウオウ)は次のように言っている。

恵比須−律儀−守るべきを守って信義を重んずること
大黒天−有徳−足るを知って諸事に質素倹約のこと
寿老人−寿命−衛生を守って身体の健全を計ること
福禄寿−人望−向上発展の思想を以って事毎に希望をもつこと
布袋−−大量−度量を大にして妄りに怒らぬこと
毘沙門−威光−自らつとめて怠らず勇猛精進のこと
弁天−−愛嬌−慈悲博愛の心をもって他に接すること
となる。

無目的・無責任・無反省の三無の時代,・今年こそ貧乏は貧乏らしく、不景気は不景気なりに、せめて 自分達の身辺だけは希望のもてる環境を創るべく、七福神の心を戒めとして三無を三省にかえ、 「忘己(ボウシ)利他(リタ)」、 「利他をもって自利となす」の心で、最終的には宮沢賢治の言う「この世の中のす べての人々がみんな幸せにならなければ、人間一人一人の幸せはない」ことを肝に銘ずることだ。
 年をとると1年365日その早さを増してくる、今年こそ悔いの残らぬものにしたいと思う。

今年の年賀状に私は、「正方眼蔵」の「誓願の一志不退なれば、わずかに三歳をふるに弁道現成するなり」 の中の「一志不退」と書いた。
 志を立てなければ、何事も生まれてこない人生をどのようにデザインすればよいのか、それは自 分自身で必死に決めることだ。石の上にも三年というが、三年間必死に頑張れば必ず先が見えてくるというもの。

今年の正月、私は一つの目標を立てた、その目標に向かって、この一年「一志不退」の決意をかためた。
 そこで

   “元旦や
      この心にて
        世にいたし”

 となったというわけである。